アンバランスな教授

 教授先生は午前の長すぎる外来診療を終えて自室に戻ってきた。予約制で診察する患者さんは10人ぐらいでそれほど多くない。大学病院だから簡単な病気ではない。午前中外来となっているが終るのはたいてい昼を過ぎて2時前になる。1時半から病棟回診があるが毎回間に合わない。
 大学病院の回診はその教室のトップ教授と助教授の2人が週1回行う。患者を診ることは勿論だが、教室員の教育のため受持ち以外の患者を診る良い機会になる。これは大学病院に限らずある程度の病院では回診は行われている。
 受持ち医者がその患者をどのように診断するのか見てもらう良い機会だ。それは回診するトップの医者の実力も試される。実力のないトップであれば形式的なものだけになり時間の浪費でしかない。
 普通は回診のため前日から医局員は何を述べるか整理してヒヤヒヤしながら教授の到着を待つ。鍛えられ優秀な医師になるかそうでないかは教授、部長とかトップに立つ者の実力にかかっていると言えなくはない。
 回診について述べるには大学病院はこんな事があると知って欲しいし、また大学医局には様々なトップがいる事を知るのも良いだろう。
 教授と助教授の回診の開始時間が大幅に遅れるのはいつものこととわかってはいるがたまに早く来ることがあるので、もしもの事を考え受持ち患者のいる部屋の前でカルテを持って待っている場合もある。その教授の外来についたことがあるが、確かにこの教授は要領が悪いなと私ばかりでなく他の医局員も口には出さないが思っていたはずだ。どこの世界でも自分の将来を託している上司に意見が出来ない。
 ようやく外来診察が終わり自室に戻ると秘書が買ってきたおにぎりを受取り病棟に移動する2~3分の間に食べるというよりは口に入れる。噛む時間がないので米粒を喉に押し込んでいた。病棟に着くまでに米を食道に入れなければならない。喉につかえるなどと言ってはいられない。回診2時間の間に50人前後の入院患者を診なければならない。受持ちの医師は簡潔に経過を述べる。教授はそれを聞きすぐに病状を把握する必要がある。
 定例で週に1回新たな入院患者を紹介する会議がある。そこで患者の情報を掌握しなければならないのでよほどの医者でないと教授は務まらない。
 残念ながらどうしようもない教授もいるので、その場合受持ち医者はその教授を適当にあしらうか、どうしょうもない時には教授との間に空白の時間が流れる。 
 私にもそのような事があった。肺の陰影について教授にどう治療したら良いのか尋ねた。何事にも「そうですね」と言うだけ何の役にも立たなかった。そういう教授に質問するのは無理なのである。
 日本一の医学部と言えばT大学医学部になるが、そこを卒業しただけで教授や助教授になる人がいる。
 未だ不思議になるのは一流の国立大学医学部を卒業した4人の医者が働いている病院にローテーションで行ったことがあった。ほとんど顔を見せない教授は回診には姿を見せる。その教授の出来の悪さ加減は良いとして優秀な教室員はどうしてそこに入局したのだろうか。第一は入局したのは教授からの誘いだ。ところが程なくして退職したというシナリオだ。彼らはトップクラスの医者にはなれないだろう。入局した時の教授が退職してしまい、次の担当教授はT大学出だけで教授になった経歴の持ち主で指導力もなく医学的知識にも乏しい教授だった。入局した優秀な彼らはその間、なまぬるいこともわからず無駄な時間を費やしたことになった。優秀な彼らは身の振りどころがなかったのだろう。
 それはさておき回診は時間が限られているのでほとんどの場合教授は患者と話さない。だが患者の訴えを聞いて受持医が気付かないものを引き出そうとする教授がいた。患者の訴えは主訴と言い治療の中心になる。
 大学教授の診察には原則スタッフ全員と婦長がつく。ある大学病院で経験したのは受持ちもなく一人で回っている教授がいた。一人一人のカルテを一人一人見るわけにはいかない。自分のプライドは相当傷つけられているはずだがなれっこになっているのだ。そのような教授も現実にはいるのだ。
 私が経験した国立大学の教授はかなり独特な性格をしていた。本人の名誉のため詳細は避けるが、回診時間は押せ押せとなり患者の予約時間はいみのないものになる。それでも診察時に急に患者の私生活の細々まで聞いたりする。特にある身体障害者に対して診察していた時の事は忘れられない。時間の経過も無視していろいろ聞き出そうとする。私はあなたの味方だと話した時にはそこについていた医者の皆はクスクスと腹の中で笑っていた。患者自身も戸惑っていたであろう。いろいろアンバランスな医者だとつくづく思った。
 こんなトップに会ったこともあった。ようやく呼ばれて診察室に入った患者が椅子に座るなり一言二言話すと次回の診察日は何時にしましょうかと言ってメモ帳を取り出す。患者が入ってくる様子でどんな状態かわかるのだが、日にちを決めてから診察を始める。患者は薬が切れる頃来院するのだからわざわざ時間を割いて次回の診察を決める必要があるのだろうかと思う。ある意味診察には雑談も必要である。診察は教授しか出来ない。この教授は高度な聴診や診断技術はあった。しかしこのような診断技術は医療器械に取ってかわっている。一番は患者の声ではないか?内科医でも昨今は患者の体に触らなくなってきている。
 大学の先生は小学校の先生も同じだが大学を出た翌年から先生!先生!と呼ばれるものだから偉いのだと思ってしまう。患者の前では同じ立場である。
 朝から深夜まで忙しいので自宅で新聞もテレビも見たことがない大学教授がいた。朝早くから来て夜の11時ごろまで病院にいるとすれば時間はない。社会情勢も知らないし、今の日本の総理大臣は誰かと聞いた時には何とか正解だったが気恥しそうであった。
 あるアメリカ人の若い女性が教授室にやってきた。体が大きく太めでアメリカ人らしく陽気で屈託のない女性だった。教授の日本語の論文を英語に翻訳する仕事らしい。日本語は片言だが医学論文の翻訳なんて出来るのだろうか? 時給は5,000円だ。日本人の教授室の私設秘書が時給850円と比べるとあまりにも高い。その時代の女性が本国で働いたら時給10ドルぐらいだ。1週間に1回教室に来るのだが彼女はとても幸せそうだった。教授は外国人が好きだ。誰でもわかる英語は堪能で外国の医学部の学生や見学者などが来ると自分の仕事もそっちのけに彼らの世話をする。ただし貧しい外国人学生や日本人の見学者などには全く無関心だ。忙しい忙しいと言いながら有名な医学部の教授の息子の医学生には食料品の鍋窯の買物まで手伝っていたのには驚きを通り越して何か裏がありそうな気がした。それはすぐわかった。子供を通してコネを利用しその大学に呼ばれるチャンスが欲しいのだった。父親は基礎医学の教授だったのでチャンスはないだろう。しかしこの子に親切にしておけば何らかの見返りを期待出来るはずだということだ。
 こんなことはどの世界でもざらにあることだろう。やり過ぎだ。教授本人は診察する時間が惜しいので昼ご飯を食べながら移動する。世話係に同級生をつけているのに、教授自身が一緒に街に行って鍋などを買い揃えてあげたりする。あの外国人コンプレックスは恥ずかしいと私は前から見ていた。この教授は外国の医学部は日本より優れていると思ったのだろうか。医局の連中にスイスの大学の医学部は日本との違いがあるかなどを話して欲しいと頼んでいたが、その若い医者は素直で違いはないと言われ教授はひどくがっかりしていた。
 外国の偉い教授と知り合いであることは自分の人脈の広さを高めると思っている。医学部の教授も例外なくそうだ。
 ある時、教授が憎々しげにあいつには学位をギリギリまでやらないつもりだと私の前で言った。あいつは裏でうちの奥さんの悪口を言っていた。彼はこの前ここに来て学位はいつもらえるのかと聞いてきたが「君はうちの奥さんの悪口を言っていただろう?学位をやる気はない」と言ってやった。そうか学位とはそういうものなのか。教授の奥さんが人事にも影響するとは思わなかった。それは教授が孤独だから中立である私しか話し相手がいない、教授の奥さんは教室員を教授派と反教授派に分けていた。その奥さんも独特の性格の持ち主で夫は教授だから自分も偉いと思っている。こういう事はよくあることでびっくりする事ではないが教授の不用意な発言には驚いてしまう。
 学位を取らせるのは本人の実力があるから論文審査に通るわけだが、その前の段階で落とされしまうこともありなのか。 
 医学博士は悪い面ばかり強調された時代があった。博士号を取るために主任教授の言いなりになって下働きばかりさせられる。そんなバカは許されないと大学医学部の医局制度の見直しが行われた。そこで出た結論は大学を出てから教授に奉仕するのは間違いだとして勉強する場所を医局で行わず、ある一定レベルの力のある病院へ卒業生を分散して派遣し、勉強させる制度を新たに確立した。そうなると学位論文を書く人が非常に少なくなって医者のレベルが学問的に落ちたが検証はないが元には戻れない。私は平均化をしなくてもよい、突出してできる人が一人いればよい。
 その頃の学位論文は動物実験等を主にして臨床レベルで学位を取ることは人のデータを集めるのが厄介なので少なくなっていた。しかし、今も外国へ行って勉強しそれを学位論文にしてアピールする。
 大学病院の教授や主たるスタッフや大病院の院長や部長になるのは今もなお学位のあるなしが決め手になっている。今は学位というタイトルに変わって専門医制の方に重きが置かれ糖尿病専門医、消化器専門医ように何々専門医なっているから学位は過ぎ去ったかも知れないが研究者であるという証での学位はアメリカ等で残っている。野心のある人は学位を大学病院に勤めている時に取ろうとするが、多くの場合、自分の書いた論文はその時働いていた教室の責任者である主任教授の承認がなければ学位は取れない。そのため日頃は教授には服従しなければ自分自身のためにならない事が多いし、仮に理不尽な事であっても学位を取るためには教授に従う方が得策だ。こんなことはどこの社会でもありでトップが良ければ兵隊もよい、その逆もまた成り立つのだ。
 しかしながら教授としての力は何人が学位を取れたのかが自身の評価につながる。もう一段上の学部長や学長になれる条件の一つは多くの学生に学位を取得させた数にある。また定年退職や他の大学病院移ろうと考える時に1人でも多くの医学博士を輩出させるのは本人の業績につながるからだ。
 個人的な恣意の入るような体制は恥ずかしい限りであるが、読みたくなるような学位論文が書かれることを願うものである。
 

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