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マウント天国

アンメット最終回をまだ観ていない。
前回の投稿では、『記憶』について書きたかった。でも最終回を観てしまうと、そんなことよりも物語の世界が大切すぎて、書こうとしていたことがどうでも良くなってもう書けない気がした。それならば観る前に!と慌てて投稿してしまったのだ。
慌てて投稿したものは、後で読み返すと、大概ひどい。ちょこちょこ編集してしまってる自分も恥ずかしいし、消したら消したで、消した自分も恥ずかしい。出ていた鼻毛をそっと直したのがバレてるくらい恥ずかしい。
何であんなに慌てて世に放った??続きはもっとちゃんと書きたい。〝ちゃんと”というのは文体とかじゃなくて(文体もだけど)心の問題。できるだけ本当の気持ちを書きたいけど、あの頃はいろんな防衛本能が働きすぎていたから、自分の気持ちを解きほぐすのがこんなにも難しいのかもな、と、皆さんの投稿を見て思った。
しかし私は一体何に追われているのか。note以外の媒体でこんな風になったことはなかった。ここでは自分を正しく知ってほしい人、見てほしい人が出てきて、あがきたくなったのか?それなら前向きな好転反応みたいなものなのかも?!


noteをきっかけに出会った人たちが好きだ。その人たちが書く文章も。
すごく、すごく分かる・・・という気持ちで鼓動が高鳴り気持ちがあふれて眠れなくなることもあるし、公共の場で見てしまい、うっかり噴き出してしまうこともある。
自分とは全然違う世界で生きてきて、こんな感じ方や考え方があるんだと驚き、考えさせられることもある。
最近考えさせられたのは、“マウント”について。


この前、息子の保育園のじゃがいも掘りがあった。去年は畑の道を歩くのがやっとで、どの写真を見ても面白いくらい「無」の表情でうつっていた息子も、今年は私と夫も一緒ということもあり意気込んでいて、その姿が見られるのが嬉しかった。
出発前の準備中、うきうきした私が「じゃがいも、何個掘れるかなぁ」と言うと、息子はう〜ん、と難しい顔。かわりに一緒に待っていたKくんが「20こはとれるんじゃない?」と答えてくれた。
Kくんもやりとりに参加してくれたのが嬉しかったのか、息子の顔がぱっと明るくなり、「じゃあ25こかなぁ」とかぶせる。するとまたKくんが「30こ!」息子が「35こ!!」Kくん「40こ!!!」と、どんどん声が大きくなってかぶせ合う。
5個ずつ増えてるの、すごくない??と私が笑っていると、Kくんが「99こ!」と言い、息子が「143こ!」とか言って、5個ずつの概念はすんなり消失していてまた笑えた。(息子にいたっては最初からよく分からず言っていた)
Kくんが「せんろっぴゃくごじゅっこ!!!」と言ったあたりで、Kくん1000以上の数字も知ってるんだ、すごい!!と感心し、微笑ましく見ていると、Kくんのお父さんが「はーい!競わないの!もう終わりー!!」とストップをかけた。

え・・・!終わり??このゲームって、永遠にやっていいやつじゃなかったの?!

私は驚いた。そしてはっとする。そうか、これも相手によっては「じゃがいもの個数マウント」はたまた「知ってる大きな数字マウント」だったのか、と。


我が家は兄が格闘技をやっていて、子どもの頃から“マウントポジション”を取ったり取られたりしていたので(どんな日常だよ)「マウント」や「マウンティング」と聞くたびにその、押し倒し馬乗りになった少し滑稽な姿をほわわわ〜んと頭に思い浮かべていた。マウントの意味をきちんと調べたことはなくなんとなく使っていたので、念のため調べてみると、そのイメージで大体問題なさそうだ。
あとは『かつてはサル山のサルが自分の優位性を周囲に示す行動を表す動物行動学の専門用語だった』と書かれているものもあった。なるほどなー、と妙に納得してしまう。

私は「マウントを取られた」と感じることがほとんどない。
それは「ここはサル山だぞ」と感じたら、すぐに逃げてきたから。また逃げられない時は、サル山の中の下の下の地べたの方で、いい場所を見つけてごろごろしているタイプのサルとして生きてきたからかもしれない。(ここで「サル」と書くと最近のミセスグリーンアップル問題がよぎってややこしいが、そもそも私は猿という生き物を自分より下に見ていない)

みんなで「ヨーイドン!」と一斉にスタートする系の競争は昔から苦手だった。みんながどんな考えで、どんな姿勢でゴールを目指しているのかが気になって、競争どころではなくなる。
勉強も、塾が通える距離になかったからというのもあるが、それなりにいろいろ楽しい勉強法を模索し、好きな教科だけマイペースに、ひとりでゲーム感覚でやるのが好きだった。
中学のバスケ部時代もハードな練習に耐えることは得意だったが、レギュラー争いというものがあると知り、いろんな人のうずまく感情が見えると、やる気はしゅるしゅると消えていった。(団体競技は向いてないと確信し、高校は陸上部に入った)
運転中はもちろん、少しでも後ろの車から煽られたと感じたら一瞬で譲るタイプだ。
ただ争いごと自体が嫌いというわけではなく、好きなことで自分を鼓舞し目標を達成したり、成果を出したり、すごいねと言われるのは好き。
「相手」が複数いると、入ってくる情報を処理すること(特に楽しく過ごすため)にパワーを注いでしまい、その時の自分の本心が分からなくなるので、闘志を見せ合うという行為自体が難題すぎたのかもしれない。(ちなみに過去MBTIをやってみたらそINFP仲介者とESFPエンターテイナーの時代があった)

そんな人生だったからか、今私の周りは、マウントに興味がない「お互いできるだけ自由に、好きに生きましょう」というような人種が割と多くなった気がする。
でもマウントになりやすいとされる「育ち」「肩書き」「財産」「学歴」などが重要な世界で戦っている人々を尊敬するし、そんな世界で頑張っている人こそ日本経済をまわしてくれているのではないかと思う。そんな中でも私は固有名詞だけで判断するのではなく(固有名詞を聞いてもすごさが分からないことも多いのだけど)それを得るまでの道のりや努力(ご自身の持って生まれたものでなければご先祖のそれ)や見えている景色、それゆえの苦労、自分の人生が好きかどうか、何をしている時に楽しいと感じるか、そういったことの方に興味があるし、機会があればバカみたいに質問してしまうと思う。
マウントにあふれていそうな世界から離れてすぎて、いろんなことを新鮮に感じられているのかもしれない。

育ちでいうと、私の実家はトトロの世界くらい田舎で、Googleマップの航空写真で見るとほぼ緑一色。
15年前まではエアコンはおろか、水洗トイレもなかった。家の周りにあるのは山、田んぼ、畑。子どもの頃は、自分たちの出した糞尿を肥溜めに入れて発酵させたものを肥料にした野菜を食べていた。学校の帰り道、糞尿の肥料がたぷたぷに入ったバケツを二つ、天秤のようにして、昔の魚売りさながら肩に担いで運ぶおばあちゃんたちによく出会った。私たちくらいプロになってくると、そよ風が運ぶその香りで「あ、これは我が家のじゃない。○○さんとこのにおいだな」と分かったものだ。(何のプロだよ)
こうして書いていても、やはり皆さんのマウントをマウントと受け止める土俵にそもそも立っていない気がする。
どっちが上とか下とかでもなく、土俵が違うだけのこと。これさえも“オーガニックな田舎暮らしマウント”だと受け取られるんだろうか。まぁ致し方ない。
でも大体、ちょっと話してみると「あ、こいつにこのマウンティングしても無駄だな」と思わせてしまう私だった。
(実際のところ、田舎には田舎のまた違ったマウントゲームがあり、私もそこから出られた時の開放感といったらなかったのだけど。逃げ場や選択肢が多いのは都会のいいところだ)

また私はみんなが当たり前のようにできることをできないことが多いので、自分以外の人を単純に「すごい」と思うことが多い。
私ができることは、単に人よりも時間をかけて考えたり向き合ったりしたことだけで、それにしても、とても時間がかかるタイプだった。大体の人間は自分よりすごいと思っていると、マウントを取られていても「いやほんっとすごいっすね」としか思わないのでスルー力ととらえればいいこともあるのかもしれない。(街で出会う話好きのおじいちゃんおばあちゃんとかにはよくつかまるけど)

ただ、マウントに鈍感であるということは、知らず知らずマウントを取っていると思われている可能性もある。
マウントって、いじめと一緒で「マウンティングされた」と相手が感じたからマウントになるのだろうか。
そういえば私は、3年に1回くらい、思ってもない相手から敵意を向けられる時がある。

学生時代、建築家の卵と交際し、別れた。「別れようって言ったら、やっぱりそうだよねってすんなりだったわ」と、苦笑いしながらその時のゼミ仲間に伝えると、
「まぁ、自分がお金でしか見られてないって(彼も)うすうす気付いてたんやろね」と言われ、本当にびっくりしたのを覚えている。
私はたしかに彼の部屋のインテリアや、お店を選ぶセンスが好きなんだと、彼女に話したことがあった。私は彼の美意識の高さや感性が好きだった。私も美術や建築が好きだったから。趣味も合うし刺激をもらえるのが嬉しかった。
お金を持っていることとはまったく違う話だったのに、彼女はそれをずっとお金の話だと思っていたのか...!(しかもそれだけ?!)と本当に驚いたのだ。
きっと彼女には「お金持ってる彼氏マウント」だとずっと思われていたんだと思う。私は唖然として言葉が出なかった。それからも、お笑いの好み、親との関係など、ことあるごとに突っかかってくるその子とは自然と疎遠になった。受け皿の相性って大事だ。


これまでのnoteの記事で自分がマウンティングと受け取られることを書いているとしたら、何だろう。
文章を書くのが好きだったというのは“好きだった“だけで、今は見ての通り全然書けていないし。強いていうなら、前回の記事の“幼少期リア充マウント“か?これは途中で書くのをやめてしまった自分が悪いけど、早熟だったり、子どもの頃がリア充っていうのは、ある意味悲劇なんだよな。
なんだろう。精神的未熟さに見合っていない経験は他人も自分も傷つけるというか。「減るもんじゃないでしょ」と思ってきたところが、実はすごく減っていたことに気づかされる。このへんはまた考えていきたいところだ。

と、今回こそ軽く書くつもりが、また止まらなくなってしまった。コロナ禍育児を経て、働けない時期があって、放出の仕方が分からなくなってる。こんなはずじゃなかったのに、我ながらこわい。

最後に、じゃがいも掘りの話の続きでほっこり、ほっくり、終わらせよう。
じゃがいも堀りのあと、手押し車に山盛りになったじゃがいもを見て、今度は「いくつ取れたかな?」という話になった。Kくんのお父さんはまた始まったかとばかりに「はいはい」と止める準備に入っている。
「23こ!」「56こ!!」「127こ!!!」
Kくんが「1825!!!」と言ったところで、息子は「965こ!」と下回る数字を言い、さらに「にじゅうひゃくごじゅっこ」と、存在しない数字を得意げに言った。
「何その数字」と言って、みんなが笑い、息子も笑う。
Kくんが「あ!やっぱり1こかも!」と言い出す。
「1個って、え?!じゃあここにたくさんあるのは、じゃがいもじゃなくて一体何なの・・・?」とKくんのお父さん。けらけらとみんなが笑う。
マウント大会(仮)は、血を見ることなく無事に閉幕した。
あんなに敏感で気難しい子だったのに、ハラハラする場面を楽しさで回避する、最近のこういうところは本当に救われる。
これは「マウントスルー力を持った息子マウント」であり、そもそもが「子持ちマウント」になるのかもしれない。
そしてこの記事は、「マウントとか気にしない達観した私」マウントと受け止められるのだろうか。

マウントっておもしろい。

たくさんのマウントの種が、いつかあるべき土に根付いて、花を咲かせますように。
悪気のない私は、ひそやかに願うだけだ。


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