なぜ私は寂しいのか

私は寂しい。部屋でテレビを見ているとき寂しい。友人と談笑しているとき寂しい。壁を見ると寂しい。勝ち得たとき寂しい。目覚めたとき寂しい。寂しいときは…寂しくないかもしれない。

私はなぜこうも寂しいのか。その寂しさは私の存在の奥底に流れる脈である。寂しさとはどこまでとっても私の問題である。世界のすべての人が私に微笑んでも、より一層寂しいだけ、寂しい、寂しい。寂しさは他でもない私が引き受ける私の必然である。

寂しいならばと仲間を作ればよいわけではない。そのような慰めは、より根本の、むき出しの寂しさに触れることになるだけだ。そこには私は私である以上、私からはみ出した何物にもなることができないという気味の悪い当然がある。勿論、仲間がいても私は私以上になれない。

私が腰を落としすぅと息を吸い世界の中に沈んでいくと、生きとし生けるすべての存在を感じられる。それは至福であるにも関わらず、やはり私には寂しいのだ。この意識なるものはなぜ私にだけ付き纏ってくるのか。世のすべては存在のみを懸命に生きているように見える、しかし私だけは意識に囚われてしまう。だから私は坐禅を組み、再び世界に抱かれようとするのだが、意識というものがなくなったわけではなかったと気づく。

つまり問題はこうである。瞑想状態になれば、すべての命と私は、同じ存在になったように感じられる。即ち、表象はあるが意識がないとも言うべき状態、換言すれば意識という私にしかない特異点がなくなったように思える。
しかし純粋な瞑想状態で生活を営むことはできない。するとやはり私は私であることに気づき、寂しい。

どちらが本当の世界だろうか?瞑想の私と、生活の私。生活の私が本当なのならば、私は寂しい。瞑想の私が本当なのならば、生活の私が生きていることに意味はあるのか?死に抱かれて、世界と共に生を生きるべきではないのか?

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