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書道は字が上手くなる為にするものではない。

こんにちは。
前衛書家の本田英之です。

『前衛書家として思う事』では、私が書道という世界で触れ感じてきた想いと書道芸術の本質に触れたいという前衛書家としての想いを基に書道について書かせて頂いています。書道に興味を持ってもらえるキッカケになれば嬉しいです。

さて、今日は『書道は字を上手になる為にするものではない』について話したいと思います。早速ですが、書道は字を上手に書けるようになる為にするものだと思っている方が多いのではないでしょうか。

私は、これまで書道をやってきて、字が上手くなりたいと思った事がありません。どちらかというと、手本にしている文字に似せたいと思っていました。よく字を『うまい↔︎へた』『綺麗↔︎汚い』で語られますが、これって実はとてもズレている。『似ている↔︎似ていない』や『丁寧↔︎雑』で語るべきだと感じます。

字が『うまい』、『へた』というのは、『水準』と『比較』で考えられています。例えば、日本では数ヶ月書道を習った程度ではうまいと感じてもらえなかったとしても、漢字圏でない外国ではうまいと感じてもらえる。これは水準の違いです。A君よりB君の方がうまい、でも上級生のC君はもっとうまい。これは他者との比較です。
『綺麗』『汚い』に関して言うならば、これはもう環境と好みでしかないです。

この『うまい』『へた』『綺麗』『汚い』と言う尺度で語られているのは、書写・習字・書道を一緒だと感じている人が多い事。小中学校時代に書写・習字で癖のない字を良しとした事。それと日本人特有の美意識や謙遜もないまぜになっているように感じる。

書写や習字と書道は、どれも筆を使って文字を書く事には変わりはないですが、書写は書く真似ると言う行為の基礎。習字は字の成り立ちや書き順といった字に関しての基礎。書道はその基礎的な部分をもっと深く学び、そこから生活感情を基に自己表現をする事です。
習字・書写は国語科であり基礎的な土台で、書道は芸術科であり、人それぞれの生活感情を筆に乗せ表現をする事。書写も習字も書道にとっては大事な土台になるのでとても重要ですが、書道の世界はとても広く、十人十色の表現がある。そう考えると、一部の書だけをみて熟練度の差はあれど【うまい↔︎へた】【綺麗↔︎汚い】の判別はしづらい。それに元々の【うまい↔︎へた】【綺麗↔︎汚い】の基準が曖昧過ぎる。
【うまい↔︎へた】と感じる事、【綺麗↔︎汚い】と感じる事は良い。また、その感じ方も十人十色でよい。
だが、書道の最初の触れ合いで癖のない字を良しとする事を純真無垢な子供達にすり込む事になる義務教育。これである程度の人たちが苦手意識になる。
実際、小学生は書道に興味はあるが、学校で字が上手いとされる子は少数派で自己肯定感を持つ子が多い。逆に言うと多数派が字にコンプレックスを持ち、大人になっても字が汚いと思い込む事になる。そう、上手くなりたいし興味もあるが、汚いと思い込んでいる事が大きな問題になっている。
これが日本人の文字に対する美意識や謙遜でより苦手意識が倍増し、書に対して前向きな人も「私なんてまだまだヘタです。」なんて謙遜する。苦手意識を持った方からしたらたまったもんじゃない…。

書道をする目的は、文字を綺麗に書ける様になること。ではない事は少し見えてきたのではないでしょうか。
まず、【うまい↔︎へた】【綺麗↔︎汚い】は気にする事ないのは確かです。気にした方が良いのは、なんの為に書いているかです。書道を続けていれば、結果的に文字への知識も筆の技法も身につくので素敵な文字を書けるようになります。しかし、素敵な書を書ける様になったらそこで終わりですか。(また出てきました、曖昧な表現【素敵】)
この時代、日常生活で筆を使う事は凄く減ってきています。筆文字が美しく書ける事は日常的に活かせるかはわかりませんが、年に数回は出番があるかもしれません。この数回の為に字を美しく書けるようにしたのかと思うとどうですか。
これは、書の実用的な部分の話でしたが、書道は芸術だとも話しました。芸術としての書道は、自己の想いを表現する事に意味があります。これは芸術として現代社会においての自己生活感情が作品に表現され、さらに人に訴えかける力も必要になります。これが出来る人は一握りでしょう。
さて、書道の本質が見えてくるヒントが多くあったかと思います。

さて、書道は何の為にするのかを話す前に現在の日本についても話したいと思います。
日本では1920年頃を境に日常生活に筆を筆記具として使用する頻度が低下しました。これは郵便局が使用する筆記具が筆から鉛筆に変更になり、学校などでも鉛筆を使う様になった時期です。今から約100年前の話です。そして、2020年は小学校でタブレットが一人一台支給され始めました。

スマホやタブレットの普及。AIの進歩。このような時代に書の普及をしたいと本気で思っています。

では、
命題になっていた「書道は字を上手する為にするものではない」。では何のためにするのか。
それは、芸術として書で自己表現をする為!なんて言いません。私が書を普及したいのは書家をより多く育成したい訳ではありません。
書をする意味は人生をより豊かにするヒントを得る為です。
書は中国や日本の優れた能書家の書を真似する事【臨書】をします。この行為は時代や場所によってまた人によって様々な個性が見えてくる。この違いを楽しみ、認める。そして様々な視点で観察し、筆の動きや息遣いを真似る事で古人の想いを追体験をする。
この臨書を続けていくと字形などは限りなく近づくがどうしてに似通わない部分が生まれる、それが自分の個性だと気付く。自分の個性もまた他者の個性も羨むのではなくリスペクトする事になる。
すると、書で得た気付きは人生を豊かにする気付きが多くある。古人の書を細かに観察した力が洞察力になり、違いが良いものと認識出来る事で人との違いに寛容になる。するとコミュニケーションも円滑になる。
書道は人生を豊かにするヒントに溢れている。

どうでしょう。
書の本当の価値は字が上手くなれることではない。
そう考えると、字が人を表す意味もわかってきますね。

本質を理解して書を楽しみませんか?

書道普及・前衛書家活動の為のサポート宜しくお願い致します。 多くの方に書道の楽しさ、前衛書の楽しさを伝えていきたいです。頂けたサポートは書道普及、前衛書家の活動に使わせて頂きます。