見出し画像

ルカによる福音書*すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

ちょうどこの日は週の初めの日であったが、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。

話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

(中略)

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

---------------
ルカによる福音 24.13-16,28-34
復活の水曜日 福音朗読
---------------

洗礼の準備のために神父様から教えていただいたことのひとつに、イエス様は「まことの神であり、まことの人間である」というものがあって、今でも折々に思い巡らすことばです。

ルカによる福音書の「エマオへの道」といわれるこのくだりは、イエス様が十字架にかけられて亡くなったあと、絶望してとぼとぼと歩く弟子たちと、復活されたイエス様との場面です(写真は自宅でロザリオを編む机のそばに貼っている、大好きなポストカードの一部です)。

一口に絶望といっても、自分の希望が叶わなかったときの絶望もあれば、自分の力の足らなさや、罪深さに絶望する、というときもあるかもしれません。

でもイエス様は、私たちがどんな状態であっても、いつでもそばにいてくださいますし、これ以上は歩けないからちょっと休みたいんです、といえば、一緒に留まってくださいます。

私たちが気づかないほどさりげなく、でも時には、ハッとするようななさりかたで。

かつては長崎の神学校や修道院で受け継がれてきた、手編みのロザリオ「長崎編み」。伝統を受け継いでいけるよう、ひと目ひと目、祈りを込めて編み続けたいと思います。