命を殺しかけた男の人生について

今日は帰宅してからすぐに、日本酒を口にしました。
ちょっと前に友達からおすすめされた「ひめぜん」というお酒。
とてもフルーティで甘酸っぱく、飲みやすいお酒なんですが、今日は少しだけ喉につっかえる感じがします。

さて今日は、今現在、人生史上最低風速を記録している自負のある28歳独身の私が、今までの人生を振り返っていきます。

始めに行っておくと、この記事は自分が絶望に浸って悲劇のヒーロームーブをかまして皆さんの注目を集めたいから書いているわけではありません。
自分がこの先、どのような人生を送っていけばいいのか、どの先に光があるのか、それを見つめ直すために記します。
興味のある人は読んでいってください。

学生時代

まずは学生時代についてお話します。
本筋ではないので、ぽんぽんいきます。

小学校は割愛します。あえて言うと、たのしかったです。

中学校の2年で「のだめカンタービレ」の影響で、クラシック音楽にハマります。
同級生が皆「BUMP OF CHICKEN」や「RAD WIMPS」を聞いている中、僕の推しアーティストはドヴォルザークで、好きな楽曲は「新世界より」の第三楽章でした。(皆さんがよく知っているフレーズは第4楽章です)
他人が知っていないことを知っている自分が好きなタイプでした。
勉強も好きだったので、成績はある程度良く、三重県で一番偏差値の高い公立高校に入学しました。

高校生で念願の吹奏楽部に入ります。1つ上の先輩が鬼教官でしたが、上手くできると褒めてくれるので嫌いではありませんでした。
高校2年時に文理選択があり、日本史が好きだった私は文系を選択しました。
しかし、秋ごろに図書館で読んだ「数学ガール」という本に心を惹かれ、今まで堅苦しいと感じていた数学が、急に魅力的なものに思えてきました。
もともと社会の教師を目指していましたが、急に目標を変更。数学の教師を目指したいと担任に言いますが、大反対されました。カリキュラム上、文理の変更ができなかったからです。
進路指導の先生に相談し、「文系で受験できて、かつ数学の免許を取得できる大学」を探してもらいました。
見つけてもらったのは神戸大学の発達科学部。
そこから、朝7時に学校に来て勉強と朝練をこなし、学校終わりに塾に通って10時半に帰宅する生活が1年半続き、下から2番目の順位で合格することとなります。

大学進学後は演劇にのめりこむことになりました。
これがまあ楽しくて。子どもの頃から猫背で見栄えが悪かった自分は才能こそありませんでしたが、一時期は舞台俳優や声優を目指しオーディションを渡り歩く生活をしていました。
叶いはしませんでしたが、夢を追いかけている自分が好きでした。楽しいことをしている自分が好きでした。教員の夢もあきらめておらず、ギリギリ単位を取れたおかげで教員免許を取得。4回生の夏にシャドバがリリースされてしまい、ロクに勉強しなかったため教員採用試験は落ちてしまいましたが、卒業後が公立高校で非常勤講師に就くこととなります。

ここまで書いたところで、自分の土台となる性格を分析します。
・楽しいことをしている自分が好き
・夢を追っている自分が好き
・夢や目標に対してこだわりが強く、めちゃくちゃ頑固
この3つめの項目が、これからの人生に大きな影響を与えていくこととなります。

教員になってから

1年目は非常勤講師として公立高校で勤務しました。
当時の教頭先生に授業見学をお願いしたところ、今まで見てきた1年目の人の中で一番授業が上手いと言われました。
とにかく素直に嬉しかったことに加え、「自分はなかなかできるヤツだ」と思い込むきっかけになりました。案の定、これからの人生に闇を落とします。

1年目は平凡に勤めました。なかなか順調な滑り出しです。
2年目、校長先生同士の紹介(いわゆるコネ)で、近くの私立高校で常勤講師として勤めることとなりました。
当時、勤務先の校長先生と面談したことを覚えています。

校長「いやあ、貴方、デキる目をしてるねぇ」
校長「私は目を見たらどんな人物かすぐに分かるんだよ」

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ちょっと怪しいぞ?と思いながらも、社会人の一員として上の人は立てないといけないので「ありがとうございます!」とデキる奴っぽく言っときました。

勤務初年度から、二年生の担任を持つこととなりました。
集団タバコで大規模生徒指導をしたり、終わりの会が5分伸びただけで一人の生徒から中指を立てられたりなど、まあ色々ありましたが、何とか持ちこたえていました。正直、給料もよかった。

半年が過ぎ、一人の教員として、やっと二本足で立って生きていけるかも。そう思った矢先に、事件が起きました。

「命」に責任を取れ

担任生徒の一人が、陸橋から高速道路に転落しました。

連絡が来たのは、転落した次の日の朝。震えた声で、母親からの連絡でした。

橋から落ちた。意識がない。手術の最中で、意識が戻るかも分からない。病院名は○○…

自分が聞き取れたのはそこまでで、混乱する意識に、それ以上の言葉をとらえておく猶予はありませんでした。

すぐに校長室に人が集められます。説明を行う学年主任。校長室を対策本部として、学年主任と私にはすぐに病院に赴くことを命じられます。
その前に、と校長。「その子は、昨日どうしてたんですか?」

「その子は、昨日、無断欠席をしていました。」
午前中に家に一回、父親の職場に一度連絡し、連絡取れず。
夕方にもう一度連絡をしたが、連絡取れず。
正直なところ、無断欠席で連絡が取れず、生徒側が「すみません。学校から連絡頂いていたのに気づきませんでした。」というのはよくあることでした。
転落が起こったのは、その日の夜でした。

それらを校長に伝えると、校長は目の色を変え、机を叩き、立ち上がって、怒号を浴びせました。
「お前は教師失格や!」
「普段休まない子が無断で休んだら、教師の勘が働いてヤバイと思うやろ!」
「電話がつながらんのやったら、家まで訪問して確認するぐらいせんかい!」
さらに一言。
「もしこの子に命に何かあっても、俺は一切責任とらんからな!」
「全部お前の責任や!」

会議が終わり、他の先生が部屋を後にする中、校長室には、前後が分からなくなり、立ち方を忘れてしまった私がいました。

それからの記憶がほとんどなく、いつの間にかタクシーに乗っていた私はしこたま吐きました。大丈夫だよと、学年主任が背中をさすってくれた感覚は何となく覚えています。

手術は成功し、まもなく意識は戻りました。
体は動かせませんでしたが、言葉でコミュニケーションをとることはできました。
報告の電話を入れ、校長室に戻ると、校長からこのような言葉。
「いやあ、さっきは怒ってすまんかったね」
なぜこの類の人間は、謝罪をするとき顔が笑っているのでしょうか。
「命が助かったからホント良かったわ」
命が助かっていなかったら、あなたはどう口にするのでしょうか。

後ほど状況を聞くと、ちょうど草木のあるところに転落していたらしく、あと数メートルずれていると即死の状況だったようです。

責任って何だ

次の日、改めて教壇に立った時、自分の違和感にすぐ気が付きました。

生徒の目が見えない。

正確には、自分が見ようとしていないのです。

廊下を歩いていると、校長の怒号が聞こえます。

「もしこの子に命に何かあっても、俺は一切責任とらんからな!」
「全部お前の責任や!」

正確には、頭の中にこびりついているだけなのですが。

廊下を歩く一人ひとりを見て思います。
この子が、あの子が、明日いなくなったら?
命に、何かあったら?
責任を取るとして、何をすればいい?
命に対する責任なんて、命しかないだろう。
でも死ぬのは嫌だ。
じゃあ、どうやって責任をとればいい?
分からない。

本当に、何も分かりませんでした。
生徒と向き合うのが怖くなり、それまでに培ってきた自信はどこかに逃げ、
夜眠るために目を閉じるとあの怒号が頭に響き、
眠ることができても、人が死ぬ夢を見る。

ある日気づいたら、救急車の中にいました。
帰宅中に道端で倒れたそうです。これが一回目。
二回目は、三宮で食事をした後、激しい腹痛に襲われ立てなくなってしまい、一緒に食事をしていた人に救急車を呼んでもらいました。

月に一回ほど、朝起きても立てなくなる症状が起き、仕事を休みました。
無理をして出勤しても、空きコマに居眠りをしてしまうこともありました。

そんな生活が1年続き、担任した生徒は卒業し旅立っていきました。
この1年、情熱もないまま、即席で用意した授業教材を手に、ほぼノープランで行われる授業に、ついてきてくれる生徒はほとんどいなかったかと思います。

卒業式の日、例の生徒とそのご両親が、私のところに挨拶に来てくれました。
無口ですが、愛想がよく、笑顔が愛らしい子でした。
そんな子が一言。
「無事に卒業できました。ありがとうございました。」
私はただその場に座り込み、返す言葉もないまま、ただただ泣きました。
あなたが生きていてくれてよかったよ。
あと、
あなたの体の傷に対して、俺は何も返してあげることはできなかったよ。
責任を取ることなんて、できなかった。

「もしこの子に命に何かあっても、俺は一切責任とらんからな!」
「全部お前の責任や!」

冷静になってこの言葉を思い返すと、ちゃんちゃらおかしな話なんですよね。
学校で起こったすべてのことに対して、校長は全責任を負わなければいけない立場です。それが、管理職というものです。
だからこそ、平社員より良い報酬がもらえるわけです。
ですので、このように責任を放棄する発言などあり得ないわけです。

しかし、当時の自分は、まだこの理屈を理解していませんでした。
いや、理解していたとしても、割り切ることはできなかったでしょう。
それほど、「全部お前の責任」という言葉は本当に重かった。
目の前にいた36人の担任クラスの生徒。これら一つ一つの命に負える責任なんて、あるはずがない。
今教壇に立っている他の先生は、きっと責任を負える人間なんだ。
自分には、できない。
多分、辞めた方がいいんだろう。
自分は、この36人の命を、危うく殺しかけていたんだ。

教員3年目にして、学校を去ることとなりました。
教員になること、それは、15歳のころからずっと追いかけてきた夢でした。

追うものなんてない

前に書いた自分の性格についてもう一度書きます。
・楽しいことをしている自分が好き
・夢を追っている自分が好き
・夢や目標に対してこだわりが強く、めちゃくちゃ頑固

僕が生きるための燃料は、どうやら夢と目標だったようです。

教員を辞めた後、逃げるようにしてSEの業界に入りました。
大学の授業で、多少プログラミングの単位を得ていたからです。
最初入った人材派遣会社はただのブラックだったため、最後に派遣された会社に声をかけられる形で入社しました。
大企業の下請けの、いわゆる技術者集団のような会社です。現在もここに勤めています。

入社直後、元教員であることを買われたのかは分かりませんが、とあるプロジェクトの窓口役となりました。
あるシステムに対するお客さんからの要望を、仕様書にまとめ、社内のプログラマーさんにお伝えする仕事だと思ってもらえればいいかと。

夢中で仕事をこなしていたのですが、ある日、お客さんと自分たちの認識違いで、大きな手戻りが発生することになりました。
必死になって遅れを取り戻そうとしましたが、メインのプログラマーの一人が体調不良に。
当時、サブ含めて、プログラマーは二人しかいませんでした。
二週間後、直属の上司が退社することに。
ことの顛末を客先に伝え、納期遅れが発生することを伝えましたが、お客さんからこの一言。

あなたがしっかり責任をもって、終わらせてくださいね。

グラっときました。
上手くは言い表せませんが、自分の体の支える筋のようなものが、粉末状になって、さらさらと消えていくような感覚でした。
それまでも、根を詰めてやっていた。寝る間も惜しんでいた。
気合という成分でしか成り立っていなかった体幹が、がらがらと崩れ落ちるようでした。
会議が終わり、頭を抱える最中、あの怒号が聞こえました。
「全部お前の責任や!」

そんなことが起きる前から、体の不調は続いていました。
出勤中の大阪駅のホームで座り込み、親切な人が駅員さんを呼んでくれることもありました。
それでも、なんとしても終わらせなければならなかった。
それが僕の、唯一の目標だったからです。

その日から3か月、私は休職することとなり、もちろんプロジェクトは頓挫しました。
不安定だった1か月目は、何もする気が起きなくなるか、理由のない苛立ちで家の中の物に当たったりしていました。
2か月目から徐々に安定し、3か月後に復帰することとなりますが、症状はまだ治まっておらず、今でも通院が続いています。
これら一連の出来事は、ちょうど昨年のこととなります。

この一年、いや、教員時代から何かしら病気ではあったんでしょう、自分の心と向き合いながら(いや、ホントに向き合えてるかなんて誰にも分からんけど)過ごしてきましたが、いい加減、この人生にも疲れてきました。

責任という言葉に、体を焼かれ、心を吸われた教員時代。
ずっと夢だった教師という仕事。辞めたことは多分、必然だったと思う。
あんなことが無かったらなんて、絶対に思ってはならない。
「無事に卒業できました。ありがとうございました。」
この言葉を、裏切ることなんてできないからだ。
何か間違えたか?いや、多分何も間違えてはいない。
多分必然的にこうなってる。
じゃあ社会が悪いのか?いや、そうではない。
すべて、俺の身の回りで起こっている出来事だ。
じゃあ、俺の周囲の人間が悪いのか?
悪いのは校長だけだ。あとは、多分、悪くない。
こうなってる原因はおそらく、自分だ。

そうやって、何となく自分を責めながら、先の見えない樹海のような日々を、夢も目標もないまま、何となく、ゆらゆらと生きているだけの存在。
それが今の自分だ。
自分で自分を滅するのは怖い。
でも、例えば死神さんに、「明日自動的に命が無くなりますよー」と言われても、それはそれで別にいいか、と思ってしまうような、そんな感じ。
多分雑にLOLやって、睡眠欲に任せて眠って、それで終わりなんだと思う。

どうすればいいか、教えてほしい

ここまで、自分の人生をつらつらと書いてみました。
もちろん楽しかったこともたくさんあります。
ただ、自分の心に根差している出来事や心境を綴ると、どうしてもこうなってしまうんですよね。

本当に、本当に書くか悩みましたが、ぼんやりした心境を改めて言語化できて、良かったと思います。
あと、内容的にあまり拡散はされたくないので、しばらくアカウントに鍵をつけます。

自分より辛い人なんて沢山いる、ということも分かっています。
最初に書きましたが、自分は悲劇のヒーローになって、慰めの言葉をもらうために、この記事を書いているわけではありません。
自分が自分を見つめなおし、自分という存在を更生するために書いているまでです。

そしてそんな自分を、皆さんと一緒にゲームをしたり、大会の実況ををしている時の、それなりに楽しそうな自分をメインのイメージにしつつ、ほんのうっすらとした像としてでいいから、知っておいてもらいたい。

そして、お時間あるときで構わないから、手を貸してほしい。
僕が生きるためのヒントを、どうか教えてほしい。

皆さんにとっての生きる目標って、何ですか?


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