ため息を 言葉にしてみよう 〜 踵 〜

「ぽっぽ焼き」の淡い匂いに後ろ髪を引かれつつ、白山神社の境内を通り抜ける。初詣は、まずはその先に鎮座するりゅーとぴあで。

岡村靖幸 2023→2024 WINTER TOUR「元気です」@新潟 行って来ました。

岡村さん、息災で何よりです。
今回のツアータイトル、いい。お手紙をもらったみたいで照れくさいし嬉しいゾ。
(「テクニカルサポート」や「アパシー」は、んんん?そーなの、へぇ〜……。)
早々に願いが叶った感謝を少しばかり、と取り掛かってみたものの、お返事とするにはボツだなという内容になってしまいました。そんな書き損じ葉書のお焚き上げはここで。なむなむ。

昨年11月からツアーが始まりましたが、以前からライブで聴きたかった曲がセットリストにあることを知り、心してその時を待ちました。
念願の『SMELL』、ステージには櫻井さんの声もあり、なんとまぁ贅沢なこと!
弱強の規則的なリズムは心地よく、「強」の部分に岡村さん独特のクセのある(そこがまた良き)歌い方がハマっている。歌うことで、この歌詞は生きる。Aメロからうまいこと乗せられてしまい、聴き手も直立不動ではいられなかったでしょう。

シャワーを浴びて 出てゆく踵を見ている
光を浴びて 僕はベットで ただ死んでいる ああ

SMELL(作詞:櫻井敦司 作曲:岡村靖幸)/2014

聴くたびに「♪かぁかとぉぅを〜」で唸ってしまう。
よーく見ると扇情的な歌詞が並ぶ中で、ここだけ少々趣が変わります。この文章を読んでくださっているアナタ(ありがとう)、今、目の前に何が見えますか?
秀逸な歌詞にふれ、妄想が捗り、私は「僕」に同化してしまった、という話です。
全ては「踵」のせい。


踵の主は ───
踵が見える=つま先は反対方向にあり、顔や気持ちも、もう「僕」を振り返ることはないでしょう。シャワーで自分の匂いをすっかり洗い流し、後腐れも無く別の世界へ意気揚々と踏み込む、そんな清々しささえ感じます。たぶん、殻をむいたゆで卵のようにつるんとした踵。
 
その踵を見ている「僕」は ───
head over heels (踵が頭の位置にある)、逆立ちなんてしてはいませんが、真っ逆さまになるほど夢中で、相当惚れ込んでいる状態にあると読みました。
(そういえば直近で岡村さんの側転を見たのはいつのツアーだったっけ?)
押しつぶされないよう、体の正面(本心)を隠し自衛して、うつ伏せで気配をうかがっている。それは眩しくて光を直視できないからでもあるのでしょうか。
惰性で息をしているだけの口から吐き出された「ああ」。道ならぬ恋の別れ際に、ひとり残された「僕」の虚無はそれだけで十分伝わります。


いやいやいや、顔が見えないなら「踵の主は『僕』」説もあり得るのではないか。
ライブで感化されたせいか、知っている「踵」エピソード総動員で妄想のせめぎあいとなり、ちょっと楽しくなってきました。

強者の致命的な弱点を意味する「アキレスの踵」。ギリシア神話に登場する無敵の英雄アキレスは、唯一の弱点である踵を射られ絶命したとされています。
自分の踵はしゃがんだり、鏡などに映さなければ見えないわけで。
「僕」は思考を停止しているようですが、弱点の見当はほぼ付いているのでしょ?

改行のない文章に息苦しくなり、読点で息継ぎをしながら句点を探し、あと何ページこれが続くのか確認してから読み進めた『かかとを失くして』(多和田 葉子)。あの閉塞感を思い出し、迷道にいる「僕」の心情と重ねました。

しまいには地獄絵図にまで飛躍。人間界のごちゃごちゃを半ば呆れながら俯瞰で見ている、そんな踵の主を想像してみたり。

しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

蜘蛛の糸 / 芥川龍之介

芥川龍之介の短編小説『蜘蛛の糸』は、蓮の匂いを漂わせたまま終わります。児童文学作品と銘打っていますが、子どもをこんなにもビビらせるお話ったらないわ。蜘蛛でもカエルでも不意に出逢ったら道を譲る、我がモットーとなりました。
再び地獄の底に落ちたカンダタには、匂いどころか、お釈迦様の踵だって到底見えないでしょうけどね。

蓮池、白山神社にもあるよ。