ため息を 言葉にしてみよう 〜 DNA 〜

ISABEAU DE BAVIERE 
ミュージカル『イザボー』の舞台で出会わなければ、生涯一度も口にすることのなかった名前かもしれません。中心に据えられていた舞台機構が印象的だったので、あれこれ考えたことと一緒に残しておこうと思います。
円盤発売時には衣装展開催を是非とも。照明や客席のため息込みでの完成品ですが、あの質感と色合いを間近に見たい。


同心円上にある3層の舞台セットは、イザボーを模してもいるんだろうな。

イメージしたのは天気予報の気象衛星画像でよく見る「台風の目」。台風の中心付近は風が弱く、雲のない円形の区域では青空が見られることも。反時計回りに強風が吹き込み、発達した積乱雲が巨大な壁となります。

舞台の中心には空っぽのイザボーがいました。
  
台風の勢力が弱まればその空洞や外壁は崩れ、いずれは消滅してしまうもの。それは束の間の平穏で、進行方向によっては容赦無く強風や豪雨にさらされます。

「台風の目」は激動の中心にあり、その原因となったり、周りに大きな影響を与える人や物を表す慣用句。活躍が予想され、注目が集まる人だけでなく、トラブルの渦中にあることを喩えたりもします。イザボーもそうだったと思いませんか?

シャルル七世の戴冠式では君主の即位を祝福し、ブルゴーニュ公ジャンの公開弁論を傍聴したり、当時の熱狂を客席で擬似体験しました。大きな渦に巻き込まれたら冷静な判断も何も、まずあの空気の中で Non!なんて言えるわけがない。


上部に半円形のアーチがあるセットがクルクル回り、配置や重なり具合で丸型の鳥籠のようでもありました。キャストがそこから顔を出し、歌い踊ります。
かつて小鳥だったイザボーは解き放たれても逃げません。羽ばたく方法を忘れてしまったのではなく、終の住処と覚悟を決めたから。意志を貫き、獣に変身していく姿は見るに忍びない。
お家騒動からの醜聞、諍いに情事まで、ありのままを目にして、ふと思う。
イザボーは「仏史上最悪の王妃」だったのか?


ドレスの裾が揺れる。途中でポーズをキメる。演者を美しく魅せる階段は舞台に必要不可欠だなぁとしみじみ。老婆心ながら、転ばないようにと足元に意識が向いてしまいます。セットの動きに目が慣れてくると螺旋階段にも見えたり。

セットの回転を担うのは、なんと人力。その姿からなぜか何本もの糸をねじり絡み合わせ、丈夫な1本によりをかけていく、製糸工程の撚糸作業を連想しました。たぶん、感情移入し過ぎてつらくなってたんでしょうね。動力が機械仕掛けなら、締め付けられるような思いもせずに「すごっ!」とか言ってたと思います。

回転しながら上昇(下降?)する3次元の曲線。螺旋構造は生命体にもあります。

舞台機構は背景であり時間軸で、回転によって時の流れを表し垂直方向は血の系譜と解釈。人物像を語らずともイザボーの生きたありようをおしえてもらいました。

人間を含む生物は、遺伝子の乗り物である

イギリス生物学者リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』

暗闇に影をひそめ姿形を変えながら、好機を逃さず息を吹き返す強靱さ。黒死病の説く平等主義は一理あります。人間は歴史に学ぶことなく、ただ生きながらえるために命をつないできたのか?開き直って防衛戦略の成果だと言い返してやりたい。


ラストシーンに状況説明はなく、情緒的な光景から、各々連想するモノは色々あることでしょう。私はバサッと音がした瞬間にひらめきました。パンフレットに記載されていた「薔薇の花」と無機質だった舞台セットがようやくつながりましたので(遅い)。このパンフがまた、とてつもなく美しくて。

舞台美術は、末満さんとの最初の打ち合わせで出た「薔薇の花」というキーワードを突破口に考えていきました。
                            (美術 松井るみ)

パンフレット MUSICAL ISABEAU : CREATIVE INTERVIEW side SCENOGRAPHY 抜粋

「もっともっと」と美しいものを求める人間のなんと強欲なこと。それがバラの生存戦略の一つで、私へのミッションでもあります。突然の私事で恐縮です。いつ植えられたのかわからないと近所の人も言う、バラのお世話係になりまして。
花がら摘みの最中、「ぼてっ」という音がした方へ振り向くと、砕けて散り散りになった花びらが。構わずに空を見上げていた花托とイザボーの姿が重なりました。
棘を服に引っ掛けてしまい枝が揺れた瞬間の、雨風にふるえながら耐えた数日後のこと。地に根を張るバラはもろくて力強く、店頭に並ぶ華やかさとはまた別の顔があります。
病気にかかったり虫がついても枝葉を伸ばし花を咲かせ実をつける、命の限り続く暴走気味のプログラム(宿命)を断ち切るため。ハサミを入れるたびにちくちくと刺されるように心が痛むので、そう仰々しく考えました。春にはたくさんの花が咲きますように。実は強気の剪定をしたので少々心配なんです。
  

アンサンブルキャストの1人、加賀谷真聡さんのインスタをお借りしました。
よかった。劇中、あふれた言葉に溺れそうになり、幻を観たわけではなかった。

先入観なしの直感は「兆候」。
身体のみで表現するハートマンを介して、逞しい生命のエネルギーは客席へ波及。不安や緊張でかえって頭が冴えていくのだから感情というものはよくわからない。
メラメラと燃えたぎり、ゆらゆらと仄めき、無邪気に地を這い遊ぶ。微かな隙間からこぼれてしたたるものを従え、ワインを呷るように飲む姿にドキドキドキドキ。
血ではない、あれは決して血ではない。「何かある(ぞわわっ)」のシーンは、しばらく日常生活に支障をきたすとわかっていても見ずにはいられません。

本人も気づかない、得体のしれないモノを発しているイザボーに魅入られる、その気持ち、わかります。ルイ、ジャン、近衛隊長以外にもまだいるんでしょ。怒らないから手をあげなさい!ほら。

翻弄された男の多くは、たいてい饒舌に何でも女のせいにする。(こりゃ失敬)
その女を妬んだ者も同様に。時に悪意を盛る(これは歴史より経験によって学ぶことも多々ありますが)。ジャンヌ・ダルクの評価の変遷などは典型的で、いつ、どこで、誰の視点かによります。
では、イザボーは誰もが言うような「仏史上最悪の王妃」であったか?
答えは YES。今までは。おそらくこれからも。

史実を簡潔な文章で揃えた書面や家系図に目を留めた時、どこにも見当たらなければ名前を呼んでしまいそう。「召喚の呪文」みたいに言ったら怒られちゃうかな。
ISABEAU DE BAVIERE ……「私の何を知っているつもり?」で・す・よ・ねー。
セット開口部から登場した最初のシーンは壮観で、イザボーを演じた望海さんに惚れ惚れしちゃった人、たくさんいたでしょ?(はーい!私も)