不満はネガティブか?

以前仕事関係でリピート率を上げるための講習を受けたことがあるのだが、そこで心に残った言葉がある。

顧客の期待を満たせなければ『不満』、満たせば『満足』、期待以上のことをすれば『感動』になる。

リピート率を上げるためには『満足』では足りない、顧客を『感動』させなければいけない。という趣旨の講習だったのだが、これは色々なことに当てはまるなと今になって思う。

プロ野球の試合を見ていると、球場でもSNS上でも試合結果や最中のプレーに『不満』を零す人もいればそうでない人もいる。同じものを見ているのに各々の感じ方が違うのは、それぞれの期待のハードルが違うからなんだろう。「試合に勝利すること」を一番に期待している人は、勝つことでしか期待を満たせない。引き分けでも負けでも『不満』になる。一方「いいプレーを見ること」「好きな選手が出場すること」「酒の肴になること」などを期待して試合を見ている人は、その期待が満たされさえすれば勝ち負けにそこまで気持ちを左右されない。「推しが元気で生きていること」くらいのハードルだと毎日満足できるし、いいプレーなんか出た日には感動に包まれているんじゃないかな。

もう少しわかりやすく言うとワンアウト満塁、誰もが得点を期待する場面。自分のハードルは「得点すること」なので三振や内野フライ、ゲッツーだと『不満』、犠牲フライや内野ゴロの間に一点などのいわゆる「最低限」ができれば『満足』タイムリーや押し出しなんかは『大満足』の域かな、ホームランが飛び出したらきっと『感動』する。ただこのハードルが違うとゲッツーにさえならず次の打者につなげば『満足』な人もいるし、タイムリーで初めて『満足』であとは『不満』という人もいる。『不満』を多く零す人はつまり裏返すと選手や球団に求める期待値が凄く高い人、というわけである。そう考えるとネガティブではないような気がしてきませんか?それが達成できるはず、と思っているわけだから。

『不満』も『満足』もどこに期待のハードルを設定するかでコントロールできる。ただそのハードルの設定基準が他者にあるのはいただけない。同じポジションの誰々はこうだからここまで、とか。同期の誰々はこうだからここまで、とか、あの球団はこうだからここまで。とか。そういう本人を無視した設定の仕方をすると必ず良くないギャップが生まれる。他者と比べていいことはない。それまでの経験や体格や性質でその人それぞれにやれることは違うし、違うことが強みになる。だから目の前のその人自身を見た上でハードルを設定してほしいな、と思っている。

その対象を真っ直ぐ見た上での『不満』は表現さえ間違えなければきっとネガティブなものではない。明るい言葉だけがポジティブなわけではない。けれど表現を間違えると暴言にしか見えなくなることもある。言葉だけ見るとネガティブだから気持ちが引きずられることもある。言葉に思い通りのニュアンスを含ませることが難しいSNSだからこそ、その『不満』の言葉は呑み込んで外には見せないようにして達成したときの『満足』の声だけ外に出している人はきっと大勢いる。だから不満を感じてる自分はダメなのかな、などと思う必要はないし、逆に全然不満感じない自分は変なのかな、と思う必要もない。

とにかく『満足』ばかりの人も『不満』ばかりの人も総じて「リピーター」であることは間違いない。一見価値観が合わなくて一生交わらないと思える相手も、いつかどこかで同じもので『感動』を体験してまた『感動』を味わいたいと願い追いかけ続けている、という点において皆同じなのである。


ああ、優勝したいなあ。





ちなみに個人的には今年に関しては「野球観戦を楽しめること」が一番のハードルなので試合展開や結果に一喜一憂はすれど基本的に『満足』しています。今シーズンないかもしれないと絶望していたあの時の気持ちを思い出せば天国ですね。



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