逃げる男
その日、私は近所の河原でYouTube動画の撮影をしていた。撮影といっても、自分のハーモニカ教室の宣伝のためにやっている、ちょっとしたミニ動画の撮影だ。景色の良いところでハーモニカをひと吹きして、ハーモニカを中心とした構図で、絵はがきのようにきれいな動画を撮る。それを週1本程度、短めの文章を添えて公開する。手間もかからず、それなりに面白くもあるので、かれこれ一年以上続けている、ただそれだけのライフワークだ。
いつもは妻と二人で散歩ついでに続けているのだが、この日は妻が忙しく、ハーモニカとスマホと三脚とを持って、一人で撮影におもむいた。
場所は地元の小田原酒匂川。一人で行う作業なので、何度でも気が済むまでやり直す。数十秒にも満たない動画を撮るために、平気で30分以上の時間をかけられるのは、なんとも贅沢なものだ。
夢中でその作業やっていて、さて、充分に素材を撮り溜めたと思う頃、後ろに人の気配を感じた。振り向くと小学校高学年ほどの女の子達二人が、私の作業を見ているではないか。私は夢中でやっていたので、まるで気がつかなかった。
明らかに私の撮影に興味を持っているように見え、二人は私を見つめながらお互いに目配せをしながら、時折じゃれ合い、眺め続けている。私がハーモニカで音を出していたから、それなりに興味を持ったのだろうか。 かつてはどこででも聴けたハーモニカの音も、今ではその音色自体が珍しく新鮮さがあったのかもしれない。
けれど、ここで「自分のハーモニカの魅力で興味を持たせた」と考えるのは少々危険である。実はこのような勘違いは以前にもあったのだ。この二人は、ひょっとしたら私が撮影をしていた場所で、自分達もスマホ撮影をしたくて待っていたのかもしれないのだ。
景色の「映える」場所は往々にしてこういう事がある。 自分達が狙っていた撮影場所に、私のような訳のわからんおっさんが、謎のハーモニカの動画をいつまでも撮っている。そんなイライラするシチュエーションは、なかなか無いかもしれない。 ひょっとして自慢げにハーモニカを吹いていたところを見られたのかと思うと、それなりの恥ずかしさがこみ上げて来て、顔が赤く染まって行く。私はそそくさと荷物を片付け、ものの数十秒でその場所を後にした。
撮影をしていた河原から車を停めた駐車場までは歩いて7~8分ほどだった。夕暮れ時とは言え、気温35度を超える過酷な夏にあって河原の石の上を渡り歩き、草むらをよじ上り、崩れかけた階段をも歩かなければならない過酷な道のりに、汗が滴り続けた。
しばらく歩いていると、先ほどの二人が私の後をついて来ているのに気がついた。同じ撮影場所として狙っていたのではなかったのだとすると、やはり私のハーモニカの音色の魅力で、撮影を眺めていたという事なのだろうか。さらにわざわざ後をついて来たとなると、ハーモニカについて、私と何か話がしたいと言う事なのかもしれない。
夕暮れ時の河原に、ハーモニカの音色。「鉄板」とも言える組み合わせとはいえ、仮想空間にまで入ってバーチャルリアリティーゲームで遊ぶ時代に、ハーモニカの音色なんかに興味を持ってくれたのだとすれば、なんとありがたい話ではないか。私は心を弾ませた。
しかしその一方で、私の頭は忙しく駆け巡り始める。この時代にあって、小学生高学年女子二人が、私のようなおかしなおっさんと話をしている絵面は、コンプライアンス的にあまりにも問題があるのではないか。慌てて周りを見渡すと、だだっぴろい空間に私達三人以外に人っこ一人いないではないか。
急に全身から汗が吹き出して来る。とにかく、今すぐ誰か人が集まっているところを探さなければいけない。話しかけられてからではもう遅いのだ。
辺りを見渡すと、かなり先に自動販売機が見えた。その周りに高校生らしき学生数名がたむろしてるではないか。とりあえずあそこに行こう。数人でも人がいるところであれば、少女達から何を話し掛けられても、まず問題にはならないはずだ。
そこに向けて歩く私は、少しずつ早足になってい行った。後から追って来る彼女達も、心なしか早足になっているようにも感じられる。 私は追われる側という立場から、自分が獲物なのではないかという妄想に駆られ始めて行った。
例えば、まず一人が私に話し掛けて来るとする。話は何でもいい。私はそれに答える。その絵面をもう一人がスマホで撮影しているという訳だ。すると、話し掛けた一人が急に泣き出し、私に「いきなりわいせつな話を持ち掛けられた」とでも言い出すのだろう。
もちろん、そんな事はただのデタラメだが、撮影されたスマホ映像を前に、一体誰が見た目が怪し気な私の無実など信じるだろうか。そして、その撮影した動画を元に、私を脅すという流れな訳か。考え過ぎかもしれないが、 今の時代、万が一と言う事もある。何にしても、私の不利はまず間違いないだろう。
そして目指す自動販売機の上に、運良く監視カメラのような物が見えた。私は「しめた!」と拳を握った。これで学生達の目に加えて、記録撮影までされているのだ。ここで仮に少女達に話し掛けられたとしても、自分には非がなかった事を、確実に立証できるはずだ。
カメラの存在で心に少しばかりの余裕ができた私は、ふいに己の滑稽さがおかしくなった。考えてみれば、全く妙な話ではないか。その小学生の少女二人が、変なおっさんに後をつけられ、とにかく人がいるところを探し急ぎ足で歩いたという話ではない。その逆なのだ。 今の時代を恨めば良いのか。それとも見るからに怪しい見た目で生まれた己を恨めば良いのだろうか。
そうこうしている間に、ようやく自動販売機の前にたどり着いた。喉の渇きもあり、一刻を争うようにジュースを購入した。すでにこの自販機で飲み物を飲んでいた高校生達は、変な汗まみれのおっさんの仲間入りが少し気まずかったのか、自販機から距離を取り始める。
私は自販機の上に設置されているカメラの方なんとなく覗き込みながら、乾いた体にジュースを流し込む。 無駄にドラマティックな絵面ではあるものの、正確な状況の記録動画を残すためなので仕方がない。
少女達は、まだ遠巻きに私の方を見ていた。変わらず、時折二人で目配せをしながら小声で何かのやりとりを繰り返している。それはまるで「あなたから話し掛けなさいよ」と押し付けあっているようにも見えるし、全く別の事のようにも見える。ここで私はさらに念のため、スマホを眺め、必要もないメールチェックなどをしてみる。話をしている暇などないかのようにそれなりに忙しく振る舞ってみたのだ。それでもまだ、その少女達はしばらくはこちらを見ていたのだけれど、私の振る舞いが功を奏したのか、何やら気まずそうに、ゆっくりと離れて行った。
結局、その少女達に話し掛けられた訳ではなく、ただ私が追いかけられたような気がしただけの話だった。本当に私にハーモニカについて話し掛けたかったのかもしれないし、ただのおっさんの勘違いだったかもしれない。
ひょっとすると、もともとその自販機でジュースを買いたかったのに、たまたま偶然自分達よりも先を歩き続ける変なおっさんが先にジュースを買ってしまい、スマホを眺めながらダラダラと飲み続けるものだから、自分達はジュースが買えなくて困ったのかもしれない。
やがて高校生達も自動販売機から離れて行き、私の周りには誰もいなくなった。私はもうすっかり小さくなった少女達の姿を遠くに見ながら、ゆっくりと駐車場の自分の車のところへ向かって歩き始める。
監視カメラには、ただ私がジュースを飲み干しているだけの映像が残っているはずだ。
おわり