もしも立食パーティーでの立ち回りで能力が評価される世界だったら
最近「能力とは何か」をちょこちょこ考えている。というのも、身近な管理職が漏らすのだ。
「○○さんには能力がない」
と。
直感で「はあ!?」と反発を覚えつつ、その場で咄嗟に反論ができない上、食ってかかったところで何コイツとなるのは目に見えているので、口元をもごもごさせて何も言わずにいることが多い。
今日はなぜ反感を覚えてしまうのか言語化してみよう。
その管理職が「能力がない」というとき、暗に能力がない「からどうしようもない」とのニュアンスを含んでいる。①能力は経験で変化しない ②能力は時間で変化しない ③能力は環境で変化しない という能力観を前提にしているのだ。
これは私の能力観とは違っている。だから反発を覚えるのだろう。
私は ①能力は経験で変化する ②能力は時間で変化する ③能力は環境で変化する と考えている。さらに、能力を個人に紐付いたものだとは考えていない。
私のイメージでは、能力とは人と環境の『間』に存在している。
例えば、目が悪い人は今でこそメガネやコンタクトを利用して普通に日常生活を送れている。だがメガネが存在しない時代に生きていたとしたら、視力が低い人はお荷物扱いされるかもしれない。「目が悪いこと」と「目が悪いことが不利になる社会」と「目が悪いことをガバーできない技術力」が組み合わさってはじめて能力の評価(目が悪い=不便、不利)が決まる。視力が低いこと単体では評価ができないのだ。
能力がない「ように見える」人がいたとしたら、環境を変えられないか真っ先に考えたらいいのだ。だから、その取り組みもせずに「能力がない」と断じているのを見るとムッとするのだ。
ていうか部下である私の前で能力がないとか言うなよと思うのだが、私もジャッジする側だと認定されているのだろうか。とんでもない。
私なぞ立食パーティーでの立ち回りがものをいう世界に転生してしまったら、無能オブ無能である。
能力なんてそんなもんだ。
(どみの)
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