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東大コンプと早稲田で学ぶということ

※ただの自分語りとそれを踏まえた東大入学式の祝辞への感想です。悪しからず。

まず僕は東大落ち早稲田です。高校・浪人時代は東大文科一類に行って官僚になることを目指していました。

浪人していたこともあり、東大オープンでも文科一類でランキングに入っていたし、センター試験も96%で早稲田の同じ学年の中では僕よりもセンター利用組として点数が高い人は見たことがありません。どうせ東大受かるだろうからと一般入試もうけず、センター利用は合格発表すら見ませんでした。東大の二次試験も数学や世界史は8割を超えていたのでまさか落ちるとは発表を見るまでは夢にも思いませんでした。

そんな状況で落ちて大学に入り、その後も色々と嫌なことが重なったので入学式直後の僕は本当に人生がおわった気分でした。自殺しようかと考えたこともあります。

ただ、受験システムの中での偏差値のみにこだわっていた僕も、早稲田に来て様々なバックグラウンドを持つ友人と出会い、いろいろな価値観に触れ、少しづつ変わっていきました。

一年生のときは中学時代の友人とヒッチハイクしたり、起業の手伝いをしてみたりもしました。後半から始めたプログラミングで自分でアプリを作り、人に使ってもらうことの嬉しさを知りました。また、必修の授業で出会った友人の学問に対する情熱に影響され、その進む先が見て見たいと思って僕も哲学科に進むことを決めました。

その一方で東大に対する愛憎相半ばする気持ちが残っていたのも事実でした。今年の二月までバイトで塾講師をやっていたのですが、東大を受験する子には並々ならぬ情熱を注ぎました。80分の授業で東大文系数学の問題を10問以上解いて来てもらい(もちろん僕の方も予習しておいて)、できなかった問題だけ解説したこともありました。

ある意味で僕にとってその子の受験であると同時に僕の東大への代理戦争であり、それが終わったことで僕の中での東大に対するコンプレックスはなくなったと思います。

今日、東大の入学式で上野千鶴子の祝辞が話題になりました。

全文が公開されていて、こちらで読むことができます。

一昨年の僕は、僕もそこにいるはずだったと憤り運命の不条理さに嘆いていました。それが自分の努力不足・実力不足だったにも関わらず、受かった人やその環境を逆恨みし、ただひたすら己の不運を嘆くばかりでした。

ただ、そのおかげで僕は早稲田に来れました。たくさんの尊敬できる友人に出会い、失敗や挫折を繰り返しながらもいろんな学びを得ました。ルサンチマンは時に人の大きな原動力となります。時には立ち止まってもそれにとらわれることなく、前を向いて歩くことができるのであればそれは人生にとって大いなる飛躍の糧ともなるでしょう。

もし僕があのまま順調に東大に入学していたら、僕は利己的で、人を思いやれない人間になっていたかもしれません。東大の人たちがみんなそういったエリート意識や階級意識を持っているとは思いません。しかし、少なくともあの頃の僕のメンタリティは、今日の祝辞に対して異論を唱える東大生となんら変わりがありませんでした。

本気で自分が勉強ができるのは(それすらも今となっては笑い草ですが)自分の才能や努力のおかげだと思っていましたし、それができない人を見下していた面はなかったとは言い切れません。

今では自明のことのように思われますが、才能や能力とは多様で、一つのベクトルに収まるようなものではありません。入学時点での学力では早稲田で一番(それもわかりません)だったかもしれませんが、哲学やプログラミングでまだまだ遠く敵わないと思う人に出会い、その他のいろいろな方向に自らの可能性を広げていく人を見て僕は本当に早稲田に来てよかったなと今は思います。

これは別に早稲田でなくてもよかったのかもしれません。東大でも最初に高く伸びた鼻をどこかで誰かにへし折られていたかもしれません。

でも僕は早稲田に来ました。そしてここでかけがえのない友人・恩人たちと出会いました。そして自らが努力し、培う「能力」を何に使えばいいかを考える機会をもらいました。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。(平成31年度東京大学学部入学式 祝辞より引用)

僕は祝辞に対し、全て賛同するわけではありません。東大男性のステレオタイプ的な定式化は個人的には褒められたものではないと思っています。

ただ、この祝辞で最も重要なのは男性/女性という区別による話ではなく、大学で学ぶということ、そして今後「力」を持つことの意義・責務であったように感じます。

最近、お金や権力をもっているが利己的で品がないというか、高貴さのない人(田端◯太郎などを想像してもらえれば)と、知識や高貴さを持ちながらも内にこもっていてそれを世の中に影響をもたらす術を持たない人(大学教授などのイメージ)の分離が激しいと個人的には思っています。

「ノブレスオブリージュ」という言葉が廃れて久しいですが、ある意味で現代の「貴族」として権力などを持っている人はそれにふさわしい振る舞いや責務があると僕は思っていて、その意味で今回の祝辞は個人的には大変共感できるものでした。

今の自分があることは一人ではなし得ないことであること。そしてその立場として恩恵を受けた分だけ他の人に返す責務があるということ。知ることは人に優しくするためにあるものだとよく言われます。読んだ本の量や知識や過去の実績に過度にとらわれることなく学びたいと思った出来事でした。

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