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満を持して蓋を開けば、伊波杏樹のとんでもない「今」がそこにはあった。

 とんでもない時間だった。最前列のモニターの前で私はしばらく動けなかった。伊波杏樹初となるオンラインライブ、An seule étoile ~Pousse d’ici~(アンスールエトワール~ポッスディッシィ~)(※伊波さん本人は「プーディーシーと呼んでいる)をアーカイブで見終わった私の衝動にお付き合い願えるだろうか。いやもう誰も読んでなくても良い。とにかく「今」吐かせてくれ。



 伊波さんは「舞台は生ものだ」とよく話している。板の上で繰り広げられる物語は同じ公演であっても、その語り口が同じである日は一度たりともない。ましてや舞台はその場所で体感する声や歌、その空気感を演者と観客が共有する空間があって舞台が完成する。

 その空間で生き続けてきたからであろうか、彼女はオンラインという直接観客の姿が見えず、歌う場所での空気感を共有しにくい場での「生もの」に、正直乗り気ではなかったと、自身のラジオ番組で語っている。

 そんな彼女が、それでも伝えたかった歌と想いがそこには確かにあった。それは、オンラインライブという「制限された画角」を逆手に取った演出によって、モニターに映る全てのものを「表現するための武器」へと彼女は、そして彼女を支えるカンパニーの面々は変えてしまったのであった。
 その武器は開始数分で私に襲い掛かり、私の心を揺さぶった。こんな大掛かりな武器を、一体どれぐらいの労力と時間をかけて作り上げたのだろうか。オンラインライブを迎えた今日までの気概を感じた瞬間であった。

 巨大な武器を手に取り、伊波杏樹は私たち「いな民」を「狩っていく」。ときに入念に考えた曲たちを「束」にして。私個人が大好きな曲を振りかざして(5曲目)。「僕の声で守るよ」と毎度頼りになる彼女の姿を曲に重ねて。

 曲を聴いて「やられた!」と感じたのは、8曲目であった。「文字だけでは上手く思いが伝わらないから。」と話す彼女の「普段の思いを綴れる場所」をテーマにしたこの楽曲。曲始まりの演出もまた肉…あ、違うニクい。
「ライブ前のこの時期にこのテーマは何でだろ?」と疑問に思っていた私に膝を打つ歌いだしの歌詞のシンクロ。伊波杏樹、とんでもない方である(最大級の誉め言葉)

 あの手この手で観ている人の心に訴えかける楽曲と、それを伊波杏樹というフィルターで通す彼女。シンプルに「明日」を願う彼女の想いに私は何度目か分からない涙を流す。しかし彼女はその零したみんなの涙もすくい上げて、希望を高らかに歌う。大サビ前のあの「吸収と放出」は「彼女ならば何とかするかもしれない」そして「そんな彼女だからこそ私も微力ながら応援して、何とかさせたい」という伊波杏樹と歩く明日を見せてくれたように感じた。


 あの日のクリスマスで綴った想いを今回も披露してくれた。私はあの日のクリスマスは現地で聴くことが出来なかったので、私にとっては今回が初披露であった。歌っているなかで彼女が涙を堪えているのが分かった。それでも彼女は、彼女の伝えたい「今」という空間を歌っていた。その時、モニター越しだろうが何だろうが、この曲をまさに「今」、聴いている私と彼女の空間は確かに共有出来ているような気がした。

 揺るぎない事実として、「場所」はさすがに共有出来ていない。しかし歌を聴いている「今」という「時間」としての空間は、お互いに持ち合わせている。その持ち合わせているなかで彼女と同じように心を震わせていることが出来ていることが何より嬉しかったのだ。


 もう一つのクリスマスでの想いを歌にした曲も、今回は聞くことが出来た。そろそろ7月になろうとする今、聞こえてくる「メリークリスマス」の歌声。季節外れだからこそ、より感じる「今」という浮き彫りになった空間。

 たまにふと思うのだが、私はライブを非日常な空間だと思っていて、それは映画や舞台も似たようなものだと思っている。だとすると、そこで歌う方々の、そこで物語を紡ぐ方々の、「非日常」はどこにあるのだろうか。
 もしかしたらその方々も映画を観たり、ライブに行くことで「非日常」を感じることが出来ているのかもしれない。しかし、これは勝手ながらの推測と妄想なのだが、こと伊波さんって「非日常」の場も舞台やライブに活かせるものを吸収していそうで、それが「日常」になっていってるような気がして、もしかしたらほとんど日常と隣り合わせで生きてきているような気がするのである。
 彼女の最近の非日常って、狩りに行ってるときや、モンスターを捕まえて、自転車を漕ぎ、卵を孵化しているときではないだろうか(冗談8割、本気2割)(あと、ユーチューバー見てるときとか?)

 ……ともかく。エンターテイメントはほぼほぼ「勉強の場」と捉えていて、勉強熱心で吸収できるものは何でも取り入れようとするように思える彼女は、いつも日常と隣り合わせで、それは言うなればいつだって現実を直視し続けているのではないかということ。誤解してほしくないのは、彼女が現実ばかりを見て、夢を見なくなっている。だとか、そんな彼女が心配だとかではない。

 直視したくない現実が蔓延るなか、それでもなお「今」に目を向き続けてきて、必死に必死に、「今」と闘い続けているのだ。そんな闘い続けている彼女が、手を差し伸べ、モニター越しの人と共に「今」を共有しようとしているのだ。私にはそう思えて、胸が熱くなったのであった。

 だからこそ、ラストの曲に並ぶ、「あの日・あの時」のように映る彼女たちを、私は「思い出の1ページ」のような景色として捉えるのが嫌になってきた。
 後ろに映る彼女たちを「過去」のものとしてまだ切り取りたくはなくて、その彼女たちとも一緒になって歌う、伊波杏樹をまだまだ観ていきたくて、後ろの彼女たちを「あの時」と括ってしまうと、思い出として消化して、消えてしまうような気がして。

 これから先の「今」の伊波杏樹に会うことが出来てようやく、「初めてのAn seule étoileから今まで」を「あの頃」と振り返ることが出来るような気がして。伊波さんのご本人の意図とは違うかもしれないけど、それまでは振り返りたくないなと我儘が生まれてしまって。

 だって、「今」を歌う彼女は、後ろに映る彼女たちと変わらず笑顔で歌っているのだから。












※ちょっとしたあとがき

曲のタイトルを出さない、演出のネタバレを抑える。ことを意識して書いたらこんなにも抽象的な文面となりました。百聞ならぬ、「百文は一見に如かず」です。あなたもオンラインライブを観ましょう。なんとアーカイブは6月27日、23時59分までです。急ぎましょう笑


 まぁ多分ここまで読んでくれた方は、オンラインライブを観た物好きな方なのかもしれませんが、もし観ていないのにここまで読んでくださった方は、間違いなく愛と思いやりがある、物好きな方だと思います。ありがとうございました!
 ってかもう朝6時半なんですね。明日も(いやもうさすがに今日)昼12時に元気に出勤したいと思います。後悔はしてない!笑

 

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