客観的事実を全く考慮しない溝田泰之裁判官

先日、名古屋高裁が言い渡した一部無罪判決のうち一部無罪部分が確定した。一部無罪判決は、相応の価値があるため、抽象的ながら報告をする。

複数の犯罪事実で起訴されており、犯罪ごとに争点が異なっているが、一部無罪となった部分については、被告人の犯人性(財産犯)が争点であった。

一審における弁護人当職の主張は、アリバイと客観証拠から伺える現金の流れからして、被告人が犯人とは認め難く、被害者が昔のことだから記憶違いをしているというものである。
客観証拠から伺える現金の流れについてはあまりにも具体的な事実関係であり抽象化しようがないのだが、甲A号(捜査関係事項照会)、甲B号(捜査関係事項照会)、弁C号(位置情報調査結果報告書)という複数の客観証拠を横断的に見ながら、犯罪行為と関連する現金の流れを追っていくと、当該現金操作をしたのは被告人だと考えると著しく不自然だが自称被害者だと考えると極めて自然である、というものである。

以上の弁護人が指摘する客観的事実を援用した主張に対する一審検察官(浅野博司検事)の主張はどのようなものか。

なんと浅野検事は、アリバイについても客観的事実についても論告でなんらの主張もしていないのである。おそらく記録が膨大であるため、まともに記録を読んでいないから、複数の証拠を横断して初めて認められる被告人のアリバイや現金の流れに関する客観的事実を見落としたのであろう。
浅野博司検事は、私と同期なのである。修習地は私が大阪、彼が津らしいので直接的な繋がりは全然なかったのであるが、同期特有の親近感は一定程度あるし、また法廷外で彼と話をした感じ人柄がいい奴であるのは間違いない。ただ法曹は人柄が良くても仕方ない。財産犯であれば被害品たる財産、特に現金がどのように移動したかという事実関係は普通の検察官なら絶対押さえておかないといけない事実関係のはずだが、浅野検事はそれを見落としたものと考えられる。

しかし、一審溝田泰之裁判官は、客観的な現金の流れという財産犯において極めて重要な事実関係を全く考慮することなく、またアリバイについても否定して自称被害者の供述を信用して被告人を有罪とした。

なかなかである。
刑事弁護をやっている界隈には、「絶対有罪にするマシーン」とでもいうべき裁判官が少ないながらもいることは残念ながら経験則として肯定できると思われる。
溝田泰之裁判官も「無罪を書かない裁判官」という香りはしていた。というのも判決宣告時点で単独で無罪判決を書いた記録が見つからないのである。tkcローライブラリーやD-1lawで「溝田泰之 無罪。」というようなワードで検索してみるも、左陪席として無罪判決を書いている判決はヒットするが、単独で書かれた無罪判決が全く出てこないのである。もちろん判例データベースに全ての判決が掲載されているわけではないが、58期(一審判決時点で15年以上裁判官をしていることになる。)の裁判官が単独で無罪判決を書いている記録が見つからないのである。また「日本の刑事裁判官」という刑事系裁判官を追った素晴らしいブログを見ても、溝田泰之裁判官は酷評されている。
このような状況なもので溝田泰之裁判官は、ハズレな方の裁判官とは思っていたのだが、本件では検察官が争ってもいないアリバイや被告人に有利な客観的事実があるのだから、いかに単独で無罪をかいたことのない溝田泰之裁判官でも流石に無罪を書くだろうと思っていた。

しかし、溝田裁判官は、(1)アリバイについては、アリバイの根拠となる被告人の退勤時刻記録18時29分が正確であることの立証がないこと(2)現金の流れについては、被告人と自称被害者のどちらがそれをしたと考えた方が自然か考えても供述の信用性判断に影響はないとして、有罪判決を書いてしまった。

この事実認定がいかに意味不明であるか、説明しよう。
(1)溝田裁判官は、退勤時刻の正確性の立証がないという。しかし、タイムカードは、賃金、残業代といった給与計算の根拠となる極めて重要な記録であり、特別の事情がない限り、正確なもののはずなのである。世間では、残業代の未払いを訴えて、必死に戦う労働者も少なくない中、タイムカードというのは最強クラスの武器なのである。最強クラスの武器であるタイムカードの正確性が証明されていないという溝田泰之裁判官の事実認定は、意味不明で、およそ普通の裁判官のスタンダードを大きく下回っていると言わねばならない。
なお、確かにタイムカードの正確性が疑わしい場面はある。例えば、毎日9時00分出勤17時00分退勤と記録されているような場合である。出退勤時刻は、普通に生活していれば毎日多少の誤差があるはずなのに、毎日9時00分出勤17時00分退勤というような記録は、実態を反映していない可能性が類型的に高い。このような場合は、タイムカードの正確性は疑わしい。しかし、本件で問題となった被告人の退勤時刻は、18時29分であるから、タイムカードの記録が疑わしい場面に当たらないのである。
加えて、我が国の刑事裁判では「疑わしきは被告人の利益に」というルールがある。そうすると、被告人のアリバイの根拠となるタイムカードの記録がある場合、その記録が正確でないことは検察官が立証しないといけないのであり、弁護人に正確性立証を求める溝田泰之裁判官は、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の初歩中の初歩も無視した意味不明な判決なのである。
(2)客観的な現金の流れについて、溝田泰之裁判官は、要するにどっちが現金操作をしたと考えた方が自然かという議論をしても意味がないという。しかし、弁護人当職の主張は、「このような現金の流れに照らすと、被告人がその現金操作をしたとすると著しく不自然」という話をしているわけである。つまり、溝田泰之裁判官は、現金の流れという重要な事実の持つ意味・重みを不当に過小評価して被告人を有罪としたものである。

そして迎えた控訴審(杉山慎二裁判官)は、弁護人の主張を採用して、被告人に無罪を言い渡した。
曰く「原判決は、これらの客観的な現金の移動から認められる事実関係を全く考慮しておらず、論理則、経験則等に照らして不合理な認定をしたといわざるを得ない」というのである。
またアリバイについても、控訴審は原則として被告人のアリバイを否定し難いとの判断プロセスをとった。
その結果、一部無罪部分についてはちゃんと一部無罪が宣告され、無事確定した。

私がここで強調したいのは、高裁が「これらの客観的な現金の移動から認められる事実関係を全く考慮しておらず」という表現をしたことである。
過去に下級審の判決が上級審で覆された例は、いくつもある。そのような事例は、例えば、間接事実がもつ推認力の程度について上と下で分かれたという場面や供述証拠の信用性について上と下で分かれたというものである。そして、これは多少仕方ないところがある。ある事実からどこまで事実を推認できるかやある人の話がどこまで信用できるかは、人によってどうしても異なる部分が出てきてしまう。その人のこれまでの経験や価値観によってどうしても幅が出ることは仕方ないのである(最高裁ですら反対意見がつく場合がある。)。
しかし、今回の高裁は、「客観的事実を全く考慮しておらず」という。客観的事実の認定には、幅がない、つまり誰が見てもその通りの認定をするはずなのである。客観的だから、人によって幅が出ることはありえないのである。それを「全く考慮しておらず」と言われてしまう。これは端的にやばいのである。
幅が出るわけがない客観的事実を全く考慮していないと言われてしまう溝田泰之裁判官は端的に言って事実認定能力に著しい問題があると言われても仕方ないであろう。

このような、被告人に有利な客観的間接事実を全く考慮していないと高裁に言われてしまうような裁判が現実に行われてしまっていることについて、法曹界にとどまらず、一般人の議論を喚起すべく、このようなブログで報告する。
また司法修習生、特に溝田裁判官が令和6年2月10日時点で所属している岡山地裁に配属された修習生には、「裁判官室で修習生に講釈している裁判官だって、高裁から「被告人に有利な客観的事実を全く考慮していない」と言われてしまうから、無批判に裁判官のいうことを受け入れてはいけませんよ」という注意喚起を受けた上で、裁判修習を受けてもらいたいと思う次第である。

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