「日本を、取り戻す」?「世界を、取り戻す」のが先だろ ―H.アーレントの「世界」は再興できる!

2014年4月掲載、朝日新聞・論壇時評面「あすを探る」寄稿 再掲(著者稿のため、掲載時と異なる場合があります)

■政治家、特に安部首相とその側近たちの妄言が相次いでいる。その多くが歴史認識問題や憲法解釈をめぐるものだが、筆者が特に気になったのは、「今月の三本」でも取り上げた、首相が観桜会で詠んだという次の句である。「給料の 上がりし春は 八重桜」。安冨歩氏はこれを見て、ツイッター上で「八重にあがるは 消費税かな」と見事な下の句をつけて皮肉っていた。確かにこの首相の句がまずいのは、「日本人の大半が正規雇用者であり、春闘を通じて給料が上がった」と考えているようにしか見えないことだ。この句を見たら、例えば非正規雇用の立場にある多くの人がどう思うのか、どうやら全く視野に入っていないのである。これは由々しき事態だ。

■政治家の妄言は今に始まったことではないが、あまりに知的レベルが低いとしか思えない発言が連鎖する現状を、果たしてどうすればいいのだろうか。筆者がインスピレーションを得たのは、建築家の山本理顕氏が『思想』で連載中の論文「個人と国家の〈間〉を設計せよ」である。難解なことで知られるハンナ・アーレントの『人間の条件』を、古代都市の建築構造を元に明瞭に読み解いているこの論文は、上のような問題を直接に扱っているわけではないが、公人たる現代の政治家たちがなぜ妄言を繰り返すのか、その答えの手がかりを与えてくれる。それは彼らが「世界」を失っているからなのだ、と。

■アーレントが「世界」のモデルとしたのは、古代ギリシャのポリス(都市国家)である。ポリスとは、人が生きて存在し、活動していたことが永遠に記憶される装置であった。例えば建築家がつくった建物は永遠にポリスに残り、その名前は後世に受け継がれる。この記憶装置こそが「世界」である。そして「世界」は公共性の条件でもある。例えば政治家が人々の前に現れて話すとき(アーレントの言葉では「行為」)、それが「永遠に残る」と思えば、誰が聞いても恥ずかしくない公的な言葉が自然に出てくるだろう。

■そしてアーレントも指摘するように、現代社会に生きる我々は、すでに「世界」を喪失して久しい。巨大な都市化を遂げた現代社会では、もはやポリスのような小規模の共同体空間は維持できない。効率性だけが追求される資本制社会では、多くの人々は(かつてポリスでは奴隷が担っていた)食いつなぐだけの「労働」にしか従事できず、後世に残る「仕事」には関われない。だから疎外感を味わう。政治家も、自分の発言が「永遠に残る」など全く感じていないだろう。だから反知性的な発言を繰り返す。

■つまり、私達の社会は(「日本」を取り戻すよりも先に)「世界」を取り戻すべきなのだ。「世界」の再設計、それは決して不可能なことではないはずだ。ポリスのような小規模な地域の「現場」で、自分の言動が人々に常に見られ、記憶され、後世に受け継がれていくと実感できる「世界」に関わること。例えば藻谷浩介氏の近著『しなやかな日本列島のつくりかた』では、商店街・限界集落・観光・農業・郊外開発といった地域の「現場」に関わる専門家たちとの対話が繰り広げられているが、ここにはまさに「世界」を復興するための希望で満ちている。この書を読んでつくづく感じるのは、規模の小さな地域の「現場」だからこそ、人々が関わりあい、血の通った知恵が生まれ、変革の可能性が開かれるということだ。「スモール・イズ・ビューティフル」ならぬ、「スモール・イズ・インサイトフル(洞察に満ちている)」なのである。

■そしてこの論壇時評面に求められる役割は、そうした「世界」の再設計に繋がるような(藻谷氏の言葉を借りれば)「現智」を取り上げシェアすることだと、論壇委員を担当して早4年目の春に、筆者は強く確信しているのである。

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