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6月10日 承久の乱、北条政子の演説

1221年の本日、6/10は、後鳥羽上皇の北条泰時追討の院宣を受けて、北条政子が幕府御家人の前で団結を訴える演説をした日。承久の乱のはじまり。

鎌倉幕府は3代実朝の時代にさしかかっていたが、朝廷の院政は未だ上皇のもつ荘園からの莫大な財政的原資と朝廷の権威で力を持ち、幕府と朝廷の二元政治の状況であった。
後鳥羽上皇は、雅芸のみならず、武芸にも通じた傑物で、鎌倉の東面武士に対し、西面武士を設置するなど武力の増強を図っていた。
その最中、実朝が甥の公暁に暗殺される。後鳥羽上皇は、幕府調伏の加持祈祷の効果だとして大いに喜んだという。
幕府執権泰時は、後継を朝廷の係累から迎えることを提案したが、拒絶され、幕府と上皇側での対立が深まる状況となる。

その後も、後鳥羽上皇の関係する荘園の管理などで対立が深まり、ついに後鳥羽上皇から北条泰時追討の院宣が出される。
後鳥羽上皇は、院宣を出したことで、東面武士もそれに従い幕府側につくものはいないだろうと楽観視していた。

上皇挙兵の情報に鎌倉は大いに動揺したが、1221年6月10日、北条政子は鎌倉武士の前で、頼朝以来の恩顧を訴え、上皇挙兵に対抗するように演説した。

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。

— 『吾妻鏡』承久三年辛巳五月十九日壬寅条(原文は変体漢文)

その後、鎌倉側は積極的に上洛して上皇を攻めるか、箱根で守りを固める慎重策をとるかの二案が検討されるが、政子の支持する積極策を取り入れ、上洛の後、上皇側を打ち破ることとなる。
幕府追討の院宣は取り消され、後鳥羽上皇はじめ首謀者は沖などに配流され、その後幕府が朝廷を管理する体制が築かれることとなる。

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