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9月17日 アメリカ合衆国皇帝、メキシコの庇護者 ジョシュア・ノートン

1859年の本日、9/17は、アメリカ合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者、ジョシュア・ノートンが、帝位請求を宣言した日。

アメリカ合衆国は、当然のことながら、その成立より共和制を取っており、王室・帝室は存在しない。
サンフランシスコに住んでいた、ジョシュア・ノートンはいわゆる僭称皇帝である。
彼は投機の失敗から次第に正気を失い、アメリカ合衆国は共和制でなく皇帝を君主とした絶対君主制をとることで正しく統治されるとの妄想に取り付かれ、アメリカ合衆国初代皇帝ノートン一世として議会に帝位請求をする旨の意見広告を新聞に掲出した。殆どの新聞が黙殺したが、うちの一社が面白いジョークとして新聞に掲載した。

大多数の合衆国市民の懇請により、喜望峰なるアルゴア湾より来たりて過去九年と十ヶ月の間サンフランシスコに在りし余、ジョシュア・ノートンはこの合衆国の皇帝たることを自ら宣言し布告す。

―――合衆国皇帝ノートン1世

この後も、ノートン一世は、議会の解散命令や、勅令に従わない議会の逮捕命令、サンフランシスコを「フリスコ」と略さぬことという命令等多くの「勅令」を発している。「勅令」はその度に「謀反」により、実現されていない。

しかしながら、彼の勅令には進歩的で自由な発想が含まれていたり、彼自身の愛すべきキャラクターも相まって、サンフランシスコ「臣民」には広く愛された。


プレシディオ陸軍駐屯地の将校から譲られた金モール付きの青い凝った軍服をまとい、ビーバーの皮製シルクハットに羽飾りを挿し、勲章をつけて、ノートンは彼が支配下にあると考えるサンフランシスコの街路を頻繁に「視察」に訪れた。好んで携えたステッキや傘などを装っていたが、サンフランシスコの街路を巡りながら彼は歩道やケーブルカーの状態、公共施設の修理の進行状況や、警官の振る舞いや身だしなみに気を配った。彼は個人的に彼の「臣民」のことを気にかけ、さまざまなテーマについて哲学的な談義を長々と垂れるのを好んだ。

サンフランシスコでは1860年代から70年代にかけて、低賃金で働いて雇用を奪う中国系住民に対する白人市民のデモが市内の最も貧しい地域でしばしば行われたが、それらはいたるところで流血の事態に発展した。あるとき、このようなデモのひとつに皇帝ノートン1世が居合わせ、暴徒たちとリンチを受けそうになっている中国系住民たちの間に立っていた。彼は頭を垂れ、何度も主の祈りを口ずさんでいたが、それを聞いた暴徒たちは恥じて解散してしまったと言われている。

1867年、アーマンド・バービアという警官がノートンを捕え、彼の意に反して精神病の治療を受けさせようとしたとき、騒動が持ち上がった。この逮捕はサンフランシスコの市民と新聞による強い抗議を引き起こしたのである。警察署長パトリック・クロウリーはすぐに対応し、ノートンを釈放して警察として公式に謝罪した。ノートンは寛大にもこの若い警官バービアによる「大逆罪」に「特赦」を下した。この騒動以降、警官たちは通りで「皇帝」に会った時は敬礼するようになった。

大衆は公然と「皇帝ノートン」を敬愛していた。ほとんど金を持たなかったにもかかわらず、彼はしばしば最上級のレストランで食事をとり、そこのオーナーは「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」と刻んだブロンズのプレートをレストランの玄関に飾った。ノートンはこのような見栄を張ることを許しており、このプレートは実際にレストランの売り上げに寄与したという人もいる。サン・フランシスコの音楽堂と劇場では、ノートンが二匹のお供の雑種犬ラザルスとブマーを連れて貴賓席に現れるまで幕を開けることはなかった。「皇帝」の来臨がアナウンスされると観客の全員が起立して彼を迎えた。1863年、このラザルスが消防車に轢かれて死んだ時には当局によって服喪期間が設定された。ブマーが死んだ時、マーク・トウェインはその墓碑銘として「年月を重ね、名誉を重ね、病を重ね、そしてシラミを重ねた」と書いた。 セントラルパシフィック鉄道は食堂車で食事をした「皇帝」に支払いを請求したために不興を買い、「勅令」によって営業停止命令を受けた。多くの市民が「皇帝」を支持し、反響に驚いた鉄道会社は彼に金色の終身無料パスを奉呈して謝罪した。

ノートン1世の地位には実際に公式な承認の細かい記録がある。1870年の国勢調査はその統計表において彼を、「ジョシュア・ノートン、住所;コマーシャル・ストリート624番地、職業:皇帝」と記している。彼はまた小額の負債の支払いのために独自の紙幣を発行しており、それは地域経済において完全に承認されていた。この紙幣は50セントから5ドルまでの額面で発行されていたが、今日のオークションではその希少価値のため1000ドルを超える値が付いている。

サンフランシスコ市はその「権力者」に名誉を与え敬意を表した。その軍服が古びてくると市当局は盛大な儀式とともに新品を買うのに足りる分を支出した。その見返りに「皇帝」は感状を送り、終身貴族特許状を発行した。


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