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時間の比較社会学

時間の比較社会学
という本を読みました。まずはさらっと
一周したのですが、とても示唆に富んだ良い本だったので、
もう一度じっくり読もうと思います。

現代を生きる我々にとっては、
時間は正確に刻時され、0から24に向かって、
あるいは1/1から12/31に向けて、
またはA.D.1〜世界の終わりに向かって
直線的に流れていることが当たり前ですが、
それは必ずしも、唯一命題ではないということに筆者は見田宗介の指摘を引用しつつ触れます。

アフリカ人のそもそもの時間観念、古代日本人の時間観念、西洋の直線的時間把握はいかに成ったか。

私がこの本を読んで感じたのは、
時間の流れは、避けようもなく、その民族の死を規定することになり、
通じていかに善く生きるか、ということを浮き彫りにしていくというだけでなく、
改めて我々は時間の終わり、つまりいつか死ぬことを前提に、
少しでも善く生きることを希求していて、
それは本来的に死の観念がないものにも
当てはめて考えているということです。

例えば、新規にIPOがあった場合に、
とんでもない株価がついて、その後下がり続ける、いわゆる上場ゴールという現象があります。
株価は、まだ見えない未来の時間の期待的集積と考えられ、
いつかは死を迎えることになるであろう
会社の時間を、上場というきっかけで、一瞬の時間に集約してしまう。

そんな風に見ると、上場ゴールもある種のダイナミズムを感じるなぁと思います。

某gumiは、ゲームではなく、アインシュタイン的タイムマシンを発明したとも言え、
賞賛されて然るべきかと。

本当はこんな冗談めいた結論にしようと
思っていなかったのに、こうなってしまったのは、
とりもなおさず私の善く生きるという姿勢に起因するものかもしれません。

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