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10/29 ハレー彗星のハレーの誕生日

1656年の本日10/29は、ハレー彗星の名前の由来となったイギリスの天文学者、エドモンド・ハレーの誕生日。
ハレー彗星の軌道計算など、数々の天文学の業績もさることながら、気象学、統計学などでも大きな成果を残した。

ハレーは、ロンドンの裕福な石鹸業者の子として生まれ、オックスフォードのクイーンズカレッジに入学した。

オックスフォードを卒業後、南大西洋セントヘレナ島を訪れ、南半球の恒星を観測し、後に341個の恒星について詳細に記録した『南天星表』を1679年に発表した。この観測記録は高い評価を受けた。

またケプラーの惑星運動の法則につき、ニュートンが証明していることを知り、発表することを強く説得し、出版の経費も負担した。1684年のことである。

さらに、大気の動きが太陽熱によるものであることを貿易風とモンスーンに関する論文・地図で明らかにし、気圧と海抜の関係を初めて明らかにした。

1693年には、終身年金に関する論文を発表し、ドイツ・ブレスラウの死亡記録にもとづき、死亡年齢の統計的解析することで、イギリス政府の年金サービスの充実に寄与した。今日、これは人口統計学の歴史上大きな出来事とされる。

また、1690年には、水中探索の装置、潜水鐘(船から吊るす水中探査船の原型)を考案。

このように天文学にとどまらず、大きな業績を多数残している。

1705年には、ハレー彗星について、『彗星天文学概論』 を発表した。これは1682年にハレー自身が観測した彗星と、ケプラーなどが観測した過去の大彗星の軌道の比較を行ったものである。ハレーはこの著書で、1456年、1531年、1607年、1682年に現れた彗星は同一の天体であり、次は1758年に回帰することを予言した。これによってこの彗星はハレー彗星 (Halley's Comet) と呼ばれることとなった。ハレー彗星は、惑星以外で太陽系を公転する天体が初めて確認された例でもあった。彼は24個の彗星の軌道を計算した結果、1682年に出現した彗星の観測的性質が、1531年にドイツのペトルス・アピアヌスが観測した彗星および、1607年にプラハのヨハネス・ケプラーが観測した彗星とほとんど同じだと気づいた。このことから彼は、これら3つの彗星は実際には同一の天体が76年ごとに回帰したのだと結論づけた(実際の出現周期は惑星の摂動によって彗星の軌道が絶えず変化するため、数年の幅で変動する)。
ハレー彗星ほど大きく明るい彗星で、人間の寿命とほぼ同程度の短さの回転周期を持つ彗星は他にない。
1716年には、金星の日面通過の際に観測地点によってその開始・終了時刻が異なることを用いると地球と太陽の間の距離(天文単位)を高い精度で求めることができると提案した。金星の日面通過そのものは1639年に観測されていたが、その天文学的な重要性はハレーによって初めて指摘されたものであった。
1718年には恒星の位置測定データを古代ギリシャ時代の観測記録と比較して、それまで不動であると考えられていた恒星の固有運動を発見した。

グリニッジ天文台の長、王室天文官となったハレーは、1742年1/14、85歳で亡くなるまでその職を務めた。

ハレーの存命中、自らが予言したハレー彗星の回帰や金星の日面通過は起こらなかったが、彼の死後、1758年にハレー彗星が回帰、1761年及び1769年に金星の日面運動がそれぞれ観測され、彼の予言の正しさを証明した。

晩年、ハレーはおそらく星空を眺めながら、ハレー彗星を待ち望むことはなかったであろう。彼は彼の予言に、自信を持っていただろうし、星空の広さは次の探求へ彼を駆り立てたであろうから。



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