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エイリアンの傷痕2

傷痕の違和感


ちくちく
ピリピリ
衣類が擦れる不快感

傷口周囲に感じるこの不快感をどう表現すれば同じような傷のない人にも伝わるのかと考えてみたけれど、そんなものわかりっこないのだというのが結論だ。どんなことも経験に優るものはない。

手術をしてくれたDr.ヤマネコはとても腕の良いお医者様で、術後の傷口は素晴らしいものだった。経過もよく「うん、いいね、傷口綺麗だね」とDr.ヤマネコも満足できる結果が出ていた。入院当時、毎日鏡に映して観察していた手術痕は素晴らしく綺麗だった。

しかし退院後、術後1ヶ月を待たずして職場に戻ったところ、体を動かさざるをえなくなり傷口は可動域が増え伸展するたびにひっぱられやがて軽いケロイド状になってしまった。入院中は毎日の回診の時に「うんうん、傷口は綺麗だね、いいね」と褒められるような気分になるほどよしとされていたのに、Dr.ヤマネコがコンピュータに向かって「外側ケロイド」とタイプした時の私のショックは大きかった。

1月に自分で撮影したケロイド認定されてしまった傷痕と、術後9ヶ月目の傷痕を写真に撮って見比べて少し驚いた。赤く盛り上がっていた部分は焼き豚くらいの薄めの色合いに変わり、そして伸びていた。皮膚が盛り上がっていた部分が縦幅5mmとするなら今現在は10mm。

今更だけれどネット検索すれば傷跡を保護するタイプのテープは数多く販売されている。そういったもので皮膚の伸展を防ぐべきだったのか。術後3ヶ月目の頃はとにかく命があることへの感謝で心は満たされていた。だから6ヶ月目の診察の時には、調子どうですかと聞かれ、調子はいいですと答えてしまった。

しかし喉元過ぎれば的な凡人な私は、傷口の不快感から現在は不穏な精神状態に陥っている。

傷口自体は感覚が無いに等しくその周囲は鈍い感覚がある。歯医者さんで麻酔をしたあの時の感じに似ている。
術後半年が経過した頃から傷口周辺の不快な違和感が強くなってきた。理由を考えるがはっきりとした答えは出ない。
感覚が鈍い、または少し感覚がある、そんな部分に衣類があたると嫌なゾワゾワ感がある。
これは痛みとはおそらく違う。疼痛、なかなか的確もしれない表現。乳房が片方残っているためブラジャーが必要だが、今となっては無用に大きめな乳房のために左右のバランスが悪い。乳がんになるならおっぱいは小さい方が良い。切除した側にはシリコンの乳房をいれている。それでも体にピッタリくっついているわけではないからブラジャーが横にズレるというか、残っているおっぱい側へ回る。ブラジャーなど少しずれても気分が悪いものなのに数センチ回ってごらんなさい、不快もいいところよ。

乳がん仲間の刺し子さんは皮膚科受診の結果、皮膚の変色についてカビですねといわれた。私も専門家の意見を聞きに行くべきか。
いやいや、ひとまず私の乳がんの主治医Dr.ヤマネコに聞いてみるべきだろう。幸い受診日は近い。

パン屋さん

予約は大体3時から4時ぐらいだから、直前にパン屋さんに行くとすでに大半が売り切れてしまっていて悲しい思いをするため少し早めに到着してパン屋さんへ行くことが診察の日の楽しみだ。

入院時、術後四日目から60分間の自主トレ散歩外出が認められた。傷口の痛みやドレーンがブラブラする不快感はあれど散歩に出ると気分を切り替えることができて楽しい。目的は入院中に体力を落とさないよう少しでも体を動かそうということなので、カフェに寄ったり人に会ったりしてはいけないというルールがあったが、買い物は暗黙の了解で許されていた。
術後四日目の朝、発熱もなく経過も良いので散歩外出の許可が出た。

意気揚々と病院の通用口から外へ出ると気持ちの良い風が吹いていた。
気分は揚々としていても身体はそうはいかず驚くほどゆっくりとしか歩けない。徒歩5分とGoogleマップに示されたコンビニまで20分もかけてようやくたどり着き、帰りはタクシーを呼びたいほど疲弊してしまった。

病室へ戻り、Googleマップでもっと近いコンビニはないものかと検索していると、何やら随分と口コミ評価の高いパン屋があった。

Googleマップには徒歩15分と書かれていた。普通の人のスピードで徒歩15分。徒歩5分のコンビニへ20分かけて行く今の私には、1時間以内で戻らねばならないこともあってとても無理だと思えた。

ところが。
食い意地の張っている意地汚い私はここで驚くべき精神力と体力を発揮する。

翌日、とにかく行けるところまで行ってみようとパン屋へ向かって歩きだす。歩けども歩けども看板も建物も見えてこない中、きっとそこにある美味しいパンを求める気持ちをしっかりと持ち、片道25分もかかったものの私は目的地へ辿り着いた。帰りは疲れて30分かかるかもしれない。パン屋でゆっくり観て回る時間などない。大慌てで口コミにかかれていたデニッシュパンを買った。帰り道、ドレーンが邪魔で歩きにくい中、術後五日目にしてはなかなかのスピードで歩き、制限時間ギリギリに帰室した。汗びっしょりだった。

病室でこっそり食べる。クリームとフルーツが可愛らしい様子でデコレーションされているデニッシュパンは7センチ四方くらいの小ぶりなサイズ。おやつにはもってこいのボリュームだ。ここ1週間ほどはおやつなど口にしていなかったこともあって、至福の時間を過ごす。

その日から私は毎日パン屋へ通った。往復の徒歩時間はだんだん短くなり体力回復のバロメーターにもなる。病院の3食の食事は栄養のバランスが良くとても美味しかった。パン屋では主におやつになるようなデザートパンを買った。さすがに日々何もしない入院生活中にカロリーオーバーしすぎるのは危険。無理を言って仕事を休んでいるのに、退院後出社してきた社員が、丸々と太り血色がよかったら格好がつかない。

3ヶ月ごとの受診
術後9ヶ月目

アロマターゼ阻害薬の処方箋は最大で90日分しか出せないため、3ヶ月ごとにDr.ヤマネコの診察を受ける。

傷の痛みについてDr.ヤマネコに質問する前に、傷口が衣類と擦れないように色んなタイプの傷口保護テープを試すことにした。

Amazonやドラッグストアで、保護テープや絆創膏、傷口保護テープを購入。傷痕全体は17cmもあり、そもそも脇の下方向には感覚がない。嫌な感じがするのは胸の中心から5センチくらいの箇所だ。ここを保護すれば不快感は軽減しそうだ。

結論からいうと、作戦は失敗だった。
夏場の汗をかく季節に貼り付けるタイプの物を皮膚に貼るとかぶれる。うすうすそうかなぁ?とは予想していたがまったくその通りだった。
かぶれて痒みが生じている箇所が、感覚が鈍い箇所である。そんな経験は生まれて初めてだ。掻いても満足感が得られない。大変なフラストレーションだ。

痒いと痛いとどっちがいい?

二つを比較させて何かを選ばせる無意味な対決。子供の頃よくやった。車とライオンどっちが強い?おばけとUFO攫われるならどっちにする?

痒みは苦手だ。アレルギーもあって人より少し痒みが強く感じるし虫さされは腫れて炎症を起こすことが多い。いざ傷口が痒くなってみると、痛いことなんてまったくなんでもないな!という結論に至った。

Dr.ヤマネコ

ノックして診察室へ入るとDr.ヤマネコは3ヶ月前の4月に会った時のようなシャキッと座る様子では無く、いつものクルクル回る椅子に柔らかい調子でゆったりと腰掛け、ゆるーい感じでこちらを見ている。「どうですかぁ?調子は」

私はどう言えば上手く伝わるのかわからないまま話し始める。「調子はいいんですけど、傷が痛いというか、治ってきているのか、傷口の感覚が以前よりもあってこう、衣類が触るとサワサワするようになって。痛いといってもチクチクするような、酷く痛いわけじゃないんですけど」

「そっか、見る?傷口」

ここまで話をしておきながら、傷を診ましょうかと言われるとこんなことで煩わせるのも悪いなという気持ちになり、まごまごと迷って「ええっと」などと言っているとDr.ヤマネコは持ち前の優しい穏やかな調子で「診ようか」と言った。「すみません、、いいですか?」診察の時にはクリニックの診察用の上着を着ているので紐を解けば診察できるようになっている。紐を解き始めるとヤマネコはこう言った。

「いいよいいよぅ 。何でも言ってね、言ってくれないと僕わからないからさ」

傷口を触りながら「うーん、あぁ、ケロイドだねぇ」と1月にケロイド認定された美しかった私の傷は、半年後に念を押された格好になる。「子供の時の盲腸の傷もこんな感じなんです」「そぅ、ケロイド体質なんだねえ」そう言ってコンピュータに向かいカチャカチャと何かタイプする。手を止めて椅子の背もたれにもたれかかり何か考える。すこし静かな時間が流れた。そういえばトレードマークの3色ポールペンがないな、なんてぼんやり思っているとヤマネコはこう言った。

「ドレニゾンテープってのがあるの、貼ってみる? ステロイドが入ってるんだけどよく効くからさ」

Dr.ヤマネコは、まだ私の左胸にエイリアンが巣食っていた時に「悪い奴はやっつけよう!」と言った。その時から私の推しはDr.ヤマネコだ。手術も成功し術後の経過も傷のこと以外は順調だったから特にヤマネコが存在感を発揮する出来事がなかったが、そのなんとかテープとやらを貼ってみるかと、私のこの傷の不快感に苛まれる日々から救い出してもらえるのかと、期待感から「そんなものがあるのですか!」と私は食い気味に答える。

「そう、ドレニゾンテープ。あ、これ、頼み方がややこしくてこの前出来なかったんだっけ?」

医療クラークのキノコちゃんの方を向きながらそう言い、コンピュータの検索キーワードの欄に「ド」と入れるが該当のものが検索されないらしい。「先生、最初の3文字まで入力しないと検索されません」可愛らしい風貌とは裏腹に割とドライにテキパキ話すキノコちゃん。「ド、レ、ニ」3文字タイプして検索するが出てこない。モニターを見ながら二人は小首をかしげる。「あ、外用か」と検索している部門を切り替えると詮索結果に3行項目がでてくる。
「これ、何がややこしいんだっけ?どうしてオーダーできなかったんだっけ?」とヤマネコ。忙しいだろうにと申し訳ない気持ちになる。「あのぉ、ご面倒でしたら無くても結構ですけど……」

「いやいや大丈夫だよ。」

そう言って私の方に向き直る。

「教えてくれて、話してくれて、ありがとう、何でも相談してね、言ってくれないとわからないからさ」

Dr.ヤマネコの、私の推したる由縁。ヤマネコ•パワー炸裂。あなたが主治医で良かったと深く思った。

「それから、今日の検査の結果はねぇ、手術のあとのところも、脇の下の方も、反対の胸のところも転移の兆候はありませんよ。
腎臓に嚢胞があるけど全く気にしなくて大丈夫です」
「はい、ありがとうございます」
「他に何か困ってることや心配なことはない?」
「他にはありません、大丈夫です!」
「あ、前回の血液検査の結果の中性脂肪の値がものすごく高かったけど」
「す、すみません」
「食事の後だった?」
「はい、今回は食事せずに来ました」
「じゃあ今日の検査結果が通常の値だね」
「そう思います」
「他にに何かある?」
「いえ、ありません、大丈夫です」
ここでキノコちゃんが「あと血液検査がありますから待合室でお待ちください」と言い、診察が終わったことが分かった。毎回のことだけれど、診察終わりましたのタイミングがわからない。じゃあお薬出しますねとか、次回は3ヶ月後ですよとか、そんなことを言ってくれるとわかりやすい。「他に何かある?」と最後に聞いたのは「これで終わりです」という意味だったのか。わかりにくすぎる。今日はキノコちゃんがそう言ってくれたので私はありがとうございますと言いながらおもむろに立ち上がり、ドアまで歩くと内側へ向き直り、ヤマネコの目を見ながらありがとうございましたと伝え一礼した。
いつもは診察後割とすぐに会計になるがこの日は20分くらいかかった。ドレニゾンテープのオーダーがややこしいと言っていたが、関係しているだろうか。
処方箋をもらって調剤薬局へ行くと、事前に連絡が入っていたようで「ドレニゾンテープの在庫が無く、別の店舗に取りに行ってますので少しお時間いただけますか」と聞かれた。

オーダーがややこしく、クリニック横の調剤薬局に在庫のないドレニゾンテープ。

期待感、高まる!!

Dr.ヤマネコの処方なら偽薬でさえ効くかもしれない私には、絶大な効果があるに違いないのだ。

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