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3色ボールpenish 番外編

私のかかりつけ医の先生は。


彼はおじいちゃん先生で、働き者のアライグマのような、こじんまりとした感じの、何度も洗濯してくたびれたお気に入りのぬいぐるみのような人だ。コロナ禍ではいつもフェイスシールドをしていて以前よりさらに一層表情が読めなくなったが、メガネの奥の小さな目をシパシパとさせながら「はまぐり子さん、こんにちは、どうですか、おかわりないですか」と言った。

乳房切除は『おかわり』に当たるだろうかと一瞬考えたが、そうそうアロマターゼ阻害薬の服用開始を伝えなきゃと思って、手術をしました、と切り出した。

「乳癌の手術をしました」

おじいちゃん先生は少し驚いた様子でこう言った。

「それは大変でしたねぇ、えっと放射線治療とか、点滴とか、どんな感じですか?」

「はい、手術後はホルモン療法のみです。そこに書いてある薬を服用しはじめました」

洗いすぎてヨレヨレになったお気に入りのアライグマのぬいぐるみのようなおじいちゃん先生は、手元のお薬手帳のコピーに目を落とす。

「ああ、これですね。他の治療はあるんですか」

「いえ、抗がん剤治療はなく、放射線も点滴もなし。ホルモン療法薬のみです」

「あぁそうなんですね。よかったですねえ、よかったですねえ、大変でしたねえ」

彼はいつもとても紳士な対応で常に敬語を使う。うなづく先生の後ろでは、ナースが同調して首を縦に何度も降っている。親戚の家で『手術したんよ〜』と世間話をしたかのような暖かさで応対された。

今日はいつものお薬がなくなるので受診に来たのだけど、それよりも何よりも欲しいものがある。
ヘパリン類似物質かヒルロイドの入っているクリーム。私は今日これを処方してもらいたいのだ。ここがチャンスとばかりにおじいちゃん先生に傷を見せることにした。

「先生、ここなんですけどね、傷の周囲に保湿クリームを塗りたいんです」

傷を見せた方が話が早いからと思ってのことだったが、おじいちゃん先生は傷をみて「あぁ、これは酷いですねぇ」とショックそうに言った。私の乳房切除の傷はかなり綺麗な方らしく誰に見せても「綺麗ですね」と言われるし、どこに出しても恥ずかしくない傷なのに!
まぁ、おじいちゃん先生の専門は呼吸器科とアレルギー科なので仕方あるまい。クリームさえ処方してくれれば良いのだ。

「わかりました。じゃあ保湿クリームを出しときますね」

おじいちゃん先生は快諾し何やらカルテに書き込みをしている。いつもの薬の名前も書きながらこう聞かれた。

「乳がんの手術をされたとなると色々大変でしょう?痩せましたか?」

「いえ、痩せません」

即答。そして先生もナースも私も一斉に笑った。


「あれ?痩せたよね?」


乳がんの手術の際、約2週間入院した。入院中は規則正しい生活をし栄養価の計算された食事をとってお菓子など余分なものを食べないでいた。過剰な栄養をとり不規則なシフト勤務をしていた私には、生活をリセットするような毎日だったため、体重が落ちた。

退院する日の朝、Dr.ヤマネコの最後の回診の際に、傷の確認とドレーンを抜いてもらう治療があった。

「あれ?痩せた?」

「そうなんです、入院中規則正しい生活をしていたら痩せました」

「ああ、仕事柄不規則だもんね。夜遅くに食事もするもんねぇ」

入院する前に「あれ?髪切った?」とわずかな違いに気づいたDr.ヤマネコは痩せた事にも気づくすごい男性である。奥さんはさぞかし満足しヤマネコと暮らしているに違いない。

私はヤマネコがドレーンを抜く時に興味津々でじっくりとそれを見ていたが、かなりの長さの管が体の中から出てきて思わず「うおおおおおおおおーー」と感嘆の声をあげ「結構長い」と感想を述べるとDr.ヤマネコは「飾りじゃないからね」と言う。

傷口にはほとんど痛覚はなく1年2年という単位で徐々に感覚が戻ってくるが個人差がありずっと感覚が鈍い人もいる、そんな説明を看護師から聞いていた。痛みが走ったのは一箇所のみで他は麻酔をかけた時のような感覚だった。

「傷はとても綺麗だね。でもちょっと赤くなってるからここの糸切っちゃうかな」

そして傷口を縫いとめてある糸をぷつりと切る。「痛っ」少し痛みが走った。

「あれ?痛い?すごいねぇ!」

ヤマネコはドレーンを抜いた穴を消毒しバンドエイドをはり、治療を終え器具を垂れ耳ウサギナースに渡す。

「じゃあまた受診時にね」

友達からじゃあ今度の週末ねと言われるくらいの気やすさでヤマネコはそう言って席を立った。椅子は背もたれのついている回らないものなので、私はヤマネコがまた椅子から落ちるんじゃないかと心配しなくて済んだ。

家に帰れるのは嬉しいけれど2週間の入院期間はとても楽しかった。第一成人してからずっと休まずに働いてきて、今回の病気のことで初めてまとまった休みを取ったのだ。乳がんの手術とはいえ身体を休めることができた。

秋晴れの気持ちの良い風の吹く日、一緒に退院したがる人々より一足先に私は退院した。
初回の受診時には病理検査の結果が出ており今後の治療方針が決まる。ヤマネコの説明してくれた内容を復習していかなくては。

乳がんとは!
乳がんとは!
乳がんとは!

うん。しっかり復習していこう。私はそう思った。

クリームの処方

薬局でヘパリン類似物質のクリームを受け取った時、おじいちゃん先生の動揺が見て取れて笑った。小さなチューブ入りではなく、100g入りを処方されていたから。

私の乳がんの主治医はもちろんDr.ヤマネコだから、ヤマネコに頼めば良いことだ。
退院後二回目の受診の時に私はヤマネコにこう質問した。

「先生、傷やその周囲の保湿のために塗るクリームはどんなものでもいいですか?」

これはもちろん、ああそれじゃあクリームを処方しておこうか?という答えを期待しての質問だった。しかしヤマネコはこう言った。

「うん、なんでもいいよ〜」

そして私は元気よくこう答えた。

「わかりました、何でもオッケーですね!」

私はDr.ヤマネコを信じている。だからこちらから私が勝手に欲しいと思っているクリームを打診することはできない。本当はとても処方してもらいたかったが、作戦は失敗であった。潔く諦めよう。

その日私はドラッグストアにて日本の誇る万能クリーム、ニベアを買って帰った。毎晩入浴後に傷とその周囲にニベアを刷り込んだ。ニベアは万能だがやはり傷周辺に塗るには少し違和感があった。第一伸びにくくて塗りにくい。

うーむこれは。あの手を使うしかないか。困った時のかかりつけ医、おじいちゃん先生に頼もう。
思った通り私はヘパリン類似物質のクリームを手に入れることができ、毎晩の入浴後にそれを傷とその周囲に擦り込んでいる。クリームの伸びも良いが保湿力抜群で素晴らしい。ありがとう、おじいちゃん先生。
誰からも褒められる予後の経過の良い綺麗な傷。しっかりとお手入れして日にち薬で治していこう。

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