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今日の日めくり歎異抄の言葉1


今日の日めくり歎異抄の言葉

自分勝手な
ものの見方が
真実を
見えなく
している

ひそかに愚案を回(めぐ)らして、ほぼ古今を勘(かんが)ふるに。先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふに。幸ひに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門にいることを得んや。まったく自見の覚語をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。
(『歎異抄』序)

わたしなりにつたない思いをめぐらして、親鸞聖人がおいでになったころと今とをくらべてみますと、このごろは、聖人から直接お聞きした真実の信心とは異なることが説かれていて、歎かわしいことです。これでは、後のものが教えを受け継いでいくにあたり、さまざまな疑いや迷いがおきるのではないかと思われます。幸いにも縁あって、まことの教えを示してくださる方に出会うことがなかったなら、どうしてこの易行の道に入ることができるでしょうか。決して、自分勝手な考えにとらわれて、本願他力の教えのかなめを思い誤ることがあってはなりません。
(『歎異抄』現代語版3頁)

AS I HUMBLY reflect on the past [When the late Master was alive] and the present in my foolish mind, I cannot but lament the divergences from the true shinjin that he conveyed by speaking to us directly, and I fear there are doubts and confusions in the way followers receive and transmit the teaching. For how is entrance into the single gate of easy practice possible unless we happily come to rely on a true teacher whom conditions bring us to encounter? Let there be not the slightest distortion of the teaching of Other Power with words of an understanding based only personal views.
(A Record in Lament of Divergences Preface)

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私たちがこの「歎異抄」を読ましていただくばあい、どんなふうによんでいったらよかろうか―ということについて「歎異抄」の註釈書として定評のある了祥師の「歎異抄聞記」ひはこの抄はおしまいに附けられている後序の文からよんでいく方がいい―といわれています。そして師は「歎異抄聞記」に後序の文から講義をされているのですが、実は私自身「歎異抄」の読み方についてかなり長いあいだいろいろ問題を持っておったのですが、この了祥師の説によって大いに啓発されたのであります。そこで私も「歎異抄」のお話をするときには、了祥師にならって、いつも後序から話していくことにしているのです。
それは「歎異抄」というものは、全部で十八条ありますが、その十八条をただバラバラに見ておっても意味がないので、「歎異抄」そ書かずにあられなかった唯円房の心持ち、それを先ずはっきりと味わって「歎異抄」全体に流れている精神を酌みとっておくことが大切です。そのためには「歎異抄」の後序をよく読んでおくことが必要なので、おしまいの方の「右条条はみなもて信心のことなるより、ことおこりさふらうか・・・」というところから最後の「なくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて歎異抄といふべし・・・」というところまで、老眼をぬぐい泣きながらこれを書かずにおられなかった、唯円房のほんとうの心持ちが
あらわされていると思うのであります。そこで私たちはこうした後序の文意をよく味わって、そこから「歎異抄」の全体をつらぬいている精神はどんなことか―ということを知り、そのうえで第一条から第十八条にいたる、一条一条の連絡とその文章をうかがっていかねばならないと思うのです。以上は了祥師の意見を参考にしながら、私が「歎異抄」を読ましていただいている心持ちを申上げたのであります。
(『歎異抄のこころ』山本仏骨師 「読む順序」22~24頁)

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