「わからない」ということ
現在、語学勉強をしている。
無謀にも独学でフランス語、である。
なんでそうなったのかの話は置いといて、アルファベットの発音からという、本当に本当に自分の中に何にもないゼロからのお勉強を、しかも独学。
なにから手を付ければ????だが、取り敢えずフランス語学校の王様アテネ・フランセの「ゼロからスタートフランス語 文法編」の購入。
NHKラジオ講座。
フランス語学習アプリで日々5分学習から始めた。
アテネ・フランセのテキストはページをめくるも内容は良く出来ているのだろうがさっぱりわからない。
なんなら初歩過ぎて(this is a penレベルが本の半分を占める)、生意気にも興味を持てないうえにテキストとして疑う。
ラジオはわけもわからず取り敢えず聴く、復唱するだけを4ヶ月。
アプリが一番良いような気がしてくる。
それでわかったのはフランス語、なんなんだよ、面倒だよ、英語のほうがよっぽど良いよ、ということ。
※動詞の変化の多さにたまげたよね(写真)
それと、NHKラジオ講座のテキストと授業内容、とても良く出来てますね、流石ですね、ということ。
しかしここで、仕事だ何だで一ヶ月放置してしまう。
だがしかし、2ヶ月前に復活。
今度は継続を前提にしようと取組む。
アプリも復帰、今度こそ連続記録止めないぞ。
新しく「基礎からレッスン はじめてのフランス語」を購入。付属CDで耳からの文章丸暗記作戦と本からの基礎学習(ノート筆記)を始める。
あれ、ラジオで聴いた内容と被るぞ。「全く知らない」ではないからなんか取っ掛かりを見つけられるぞ!
気分はラピュタ語を解読するムスカ大佐となり「わかるかもしれないぞ!」。
なんか、あ、少しわかる気がする???もしかして、ノートにまとめる事が出来てきてる??私がどれだけわかってなかったかわかってきたかも????
「ゼロからスタートフランス語 文法編」も面白いし、すごく良く出来たテキストだわ!!流石アテネ・フランセ様!
このテキストをマスターすればなんとかなるんじゃない?!
よし!日記を書けるようになろう!
と調子に乗れるとこにまでくる。
そこで「フランス語で日記をつけよう」購入。
レベルは初心者用ではないが、今までのテキスト総動員でこの本に書かれている事がなんとか多分わかるぞ!
が今現在、です。
ノート学習になるまでに約5ヶ月かけてます。
はい、ここから本題に入ります。
ようするに「わからない」と言うことはとても簡単なのだけど、「わからない」とはとても厄介なのではないか?
実は簡単に口に出してる「わからない」は「わからないの言語にすら至ってないレベル」で、「私の世界にそれは存在しません」と言い換えられるんじゃないかと。
今回身を持って学んだのは「フランス語?わかんないですー」だったのだけど、単にそれだけではなく真っ白にわからないってことは「向き合い方すらもわからない」訳でそれが実はすごく怖いことなんだと思った。
だって、「自分の中にそれは存在しません」なのだもの。
だから「向き合い方すらもわからない」となる。
流れる水に色水を落として、その色水を掬い出せと言われても出来ない。だからそのまま傍観、又は見なかったことにすることは容易い。
「どうしたらその色水を掬えるのか」
そこへ考えを向けたときに「わからない」と言えるのではないか。
これが私なりの「わからない」ことについて考えたこと。
蛇足なのだが、そう考えたら、色水に意識を向けないということは流れる水がわけもわからぬうちに染まってしまうということもあり得るのかもしれない。染まっていくことは「無自覚の差別」等の問題の根底にあることと同じなのではない。等等、思ってみた次第。