「わたし」を穿つ。延ばす。拡げる。 §1.ぼくと理性と二面性

 こんにちは。今日から週に2本程度、無理のない範囲で投稿していきたいと思います。現在学んでいる勉強や経験から感じたこと、考えたことを発信したり、気になった時事を私見を交えて書いたりしようと思いますが、今日から暫くは、「自分を掘り下げる」記事を書いていきたいと思います。したがってあまり外向きの発信ではないと思うので、あくまで今の自分の、未来の自分に対するブックマークという形になると思いますが笑。

 今回これを書こうと思ったのは、ぼくも今年で24歳、殆ど四半世紀を生きてきた身として、一度自分を振り返る必要があると思ったからです。平成から令和にかけて、社会はますます発展し、複雑化し、また崩れゆき、無機質なものとなっていきました(こう表現した理由は、また後日述べようと思います)。常にゆらゆらと揺れていて、今まで大事にしてきたものが見えにくくなっている世界。だからこそ、一回自分を見つめ直して、これからの人生が荒波に飲まれても座礁しないように、舵をもう一度握りしめる必要があると感じたからです。

 今日はまず、今の原寸大の「わたし」に焦点を当てて、自分を穿つ軸を定めていきたいなと思います。

ヤヌス化する「わたし」

 普段の生活を振り返ってみると、ぼくはかなり気分屋と言うか、浮き沈みが激しい人だと思います。そして周りを激しく気にします。周りのみんなが自分をどう思っているか分からないけれど、多分みんなが思っているより何倍も人でなしであり、言い方を換えればもっともヒトらしい人だと思います。課題があるのに漫画を優先しちゃうし、油断するとYouTubeで時間を溶かすし、やる事があっても眠たければ寝ちゃいます。それなのに、ついついいろんなタスクを引き受けて皆に認めてもらおうとも思ってしまうし、虚栄を張ることもある。要するに、見てくれを整えるのに不必要なエネルギーを使ってしまって、have toなものに要するエネルギーが残っていないんですね。

 これをぼくは、「ヤヌス化」と勝手に命名しました。ヤヌスは頭部に二つの顔を持つローマ神話の神様で、はじまりを司るとされています。要は二面性があるということを言いたいのですが、はじまり次第で異なる顔を持つ「わたし」になる、このような所にも、ぼくには「ヤヌス化」の方がしっくり来ます。勿論自らを神格化するわけではありません笑。

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           ヤヌス像 (Wikipediaより)

理性と私

 それと常日頃、ぼくは大きな理性に包まれて生きているなと感じます。それは時に、みっともなくつまらない自分の心を外に見られないようにするベールとして作用する時もあれば、自由に躍動したい心を無意識のうちに手懐けることもあります。また自分が相手を侵害しすぎないような予防線として働いたり、相手を自分に侵入させないような防衛線のような働きもします。それは時に良いように働くこともありましたが、たいていの場合、ぼくはこの理性に悩まされてきました。

 はじめは「理性」という言葉を気に入っていました。本能的で野性的なものを卑しいものと思っていたんです。常に理性的に行動するように心がけていました。

 でもこれはつまり、見てくれの「わたし」だけを重視して、本当の私と向き合ってこなかったことに他ならなかったんです。段々と「理性」は、ぼくの頭を擡げていきました。大学で同期と話すとき、思うように心を打ち解けられなかったり、街頭に立ってアクションする時には、「理性的に見て、きみのアクションにはどれほどの価値があるのかな?」と批評することもありました。段々と、本当の私と理性が映す「わたし」に距離が生まれてきて、時には理性は遠くからわたしを眺める第三者になったり、時には本当の私を従わせようとする主君になったりするのです。

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  本当の私は自分でも分からないけれど、社会に受け入れられる「わたし」は分かっているから、理性を通して映すことができる。

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     しばしば理性は私を諭して、弱みにつけこもうとする。 


 もちろん、理性は善としての人間らしさと深い結びつきがあります。むしろ一般的に言えば、理性があるから人間は人間らしさを確保できるのであり、善良な社会を維持することができるのです。でも、だからこそ線引きが悩ましい。どこまでの理性が最善とされるのか。それが社会にとっての最善を意味するならば、それは有無を言わさず最善なのか、さらに自分が最善だと思っていたものは純粋に理性に依拠しているのか、最善であればあるほどそれは理性的なのか。そんなことは誰にも分からないし、その時の状況で評価は変わっていくでしょう。

 すみません、話がかなり迷宮入りしてしまいました。ぼくの頭の中はいつもこんな感じで、毎日迷子になっています笑。まあこんな感じで、理性の位置づけはぼくにとって永遠の課題であるのですが、本心から離れた理性は同時に二面性という問題を同時にプレゼントしてくれるわけです。糅てて加えて、この二面性が自己肯定感の消失や自己不信といった弊害をもたらしているのですが、それらについては次回以降、整理していこうと思います。



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