「わざわざ」声に出してみること。
古代ギリシアの伝承に「オイディプス王」にまつわるものがあり、ソフォクレスの悲劇に詳しい。フロイトの提唱した精神分析学の概念「エディプス・コンプレックス」の元にもなったこの物語には、主人公オイディプスにその不幸な運命を告げる盲目の賢人、テイレシアスが登場する。物語によれば、テイレシアスは盲目であるがゆえに「真実が見えている」のだという。
(テイレシアース:wikipedia)
JRの電車に乗車拒否をされたと告発する車椅子ユーザーのブログが物議を醸している。事の詳細は省くが、エレベーター等のバリアフリー設備が無い無人駅での乗下車に際して、障害者差別解消法で定められたJR側の「合理的配慮の努力義務」が、どこまで認められるのかが争点となっているようだ。告発しているブログ主の主張を要約すれば、障害者も健常者と同じように行動する自由を行使できるよう、社会の中における障害は極力取り除かれるべきであり(法もそう定めているのだから)、障害者側に特別な(健常者ではあり得ないような)負担を強いるようなことは微塵もあってはならない、ということだろう。個人的には、ブログ主のこの主張は至極正当なものであると思うし、内容には概ね同意するしかない。
では今回の事案においてJR側の対応は法的に誤り(努力義務を満たしていない)であり、どこかに根本的な問題があったのかと問われれば、これにまったく同意することもまた難しいとも思う。ブログ主はおそらく、健常者が移動をする際には(障害者と比較して)何の困難もなくその自由を行使し、鉄道その他の公共交通手段を利用できていると考えているのだろうが、必ずしもそうとは言えないのではないか。
例えば、各人の住まう家と鉄道駅との距離には差異がある。ある人は最寄駅まで徒歩5分の距離だが、別の人は1時間かかったりする。これは必ずしも経済的な面だけの話ではなく、物理的な面においても誰しもが駅前の立地に居住できるわけではない。「公共」はこの不平等を軽減するために、住宅街をめぐるバス網を張り巡らしたり、あるいは主要駅の間に「準駅=コストのかからない無人駅」を置いたりして「努力」をするのだが、もちろんこれは完全に不平等を改善できるものではない。物理的な「差異」はあらゆる場面で生じるものであり、つまり、現実の社会の中ではどこかの時点で程度問題として扱わなくてはならない。程度問題であり、差異が無くなるわけではないので、これ(公共における努力)だけでは決して不満が解消されることはない。
じっさい我々は、時空間という現実の中に放り出されたその瞬間に「差異」の世界を生きなければならない宿命を帯びている。それは社会の中においては以下のような現れ方をする。男と女、若者と老人、先輩と後輩、先生と生徒、親と子、大きい小さい、王と民、壮健と病弱、etc.・・・
上記の例をみればわかるように、(特殊な状況を除けば)お互いの立場を取り替えることも数値化して均すこともできないからこそ、どうしようもない「差異」なのである。またこれに加えて、個人が知りうる他者というものにもおのずから限界があるという問題もある。前述の「交通利便の差異」などは、意識して見ようとしない限りは見えにくいものだ。これは「車椅子」のようにすぐ目に見える「差異」ではない。
ここで差異とは「苦」の源なのだと言い換えてもいい。人は他者と違っているからこそ苦しむ。そして社会には、すでに可視化されている苦しみ(差異)、必ずしもそうでない苦しみ(差異)があり、努力したからとてそれが可視化できるとも限らない。一見して何の苦労も無いように見える人が心中にどんな苦しみを抱えているかを、他者は究極的には分かり得ない。そして分かり得ないものは比べようがない。障害者たちが障害者であるがゆえに現状感じているような不満と、健常者たち(障害の有無に関係なく)が個々の居住地による交通利便の格差に感じている不満を「比べる」ことはそもそもナンセンスだ。
このように考えるとき、特定のどちらかが「より苦しい」から特定の誰それに配慮しようとする行為は、「正しさ」の問題ではなくなってしまう。もちろんそこで数値化や、少なくとも近似値を求めることの努力(可視化・科学的分析)を無視してはならないのだが、「あなたが配慮を求めている相手も、また同様に誰かの配慮が必要なのかもしれない」という前提に決して優先するものではない。つまり、その「差異を埋めるもの」が、社会では個々における「正しさ」に優先して求められる。そしておそらくこれが「儀礼」と呼ばれるものの正体なのだ。
時空という現実に無責任に放り出された我々人間は、世界のもやもやした現象に言語等を用いて意味を付与するが、その意味はもともとのもやもやを「トリミングして」生まれたものである。その結果、世界は本来のグラデーション的なつながりを断たれ、モノとモノとに分割され、差異が生じ、苦しみが生じることとなった。儀礼とは、その差異を仲立ちし、苦しみの源が、時空という現象界における一形態(見せかけ)に過ぎないことを今一度思い起こさせるためのひとつの手段である。だからこそ、儀礼は「目に見える」形で行われるのである。
儀礼とは、現象界に放り出されたことによる差異化により忘却されているもやもやの周辺部(トリミングされてしまった部分)を、今一度「可視化」させる作業なのだ。この可視化の行為により、人は個々の苦しみという感情を越えて「ああ、相手にもまた相手なりの苦しみがあるのかもしれないな」と、立ち止まることが可能になる。
この騒動に多数寄せられたコメントの中に、ご自身も障害者パフォーマーとして活動されているホーキング青山さんのものがあった。
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/04121600/?all=1
記事中で青山さんは、社会のバリアフリー化について件のブログ主の主張に理解を示しつつも、違うやり方もあったのではないかと指摘しているが、それは「儀礼」を前提としたものだと解釈して差し支えないだろう。誰もが苦しんでいるかもしれないが、それは必ずしも目に見える形では現れない。ときには健常者に「見える」人が障害者と同じかそれ以上に苦しんでいるかもしれない。だがそれを透視することはできないし、また数値化して比べることもできない。だからまず、苦しみをぶつける前に「気配り=儀礼」を大切にしよう、ということだ。
「・・・一方で、『バリアフリー』といっても、あくまで理解があってこそ進むものなわけで、怒りをベースに進めようとしたら、反発を招いてしまって、結局誰も得をしないことになってしまうんじゃないかなあと思いました」
(記事中ホーキング青山さんのコメントより)
今回の件で言えば、例えば「事前に連絡すること」も気配りであり、つまりは儀礼の範疇に入るのではないか。ブログ主は寄せられた数々の批判に対して、健常者は電車を利用するたびに駅員にわざわざ声を出して感謝を述べるようなことはない、という内容の反論をブログに掲載しているが、「わざわざありがとうございますと声を出して言うこと」こそが、実は大事なことなのだ。健常者(の多く)がわざわざ言わないから自分も言わないのは、正当な「権利」の行使なのではなく、単に差異を埋めるための「合理的」な「努力」を果たしていないだけなのではないだろうか。健常者や障害者という区別ではなく、まずは誰もが(率先して)形として示すことによって、差異(苦しみ)を埋めるための準備が始まるのだろうと思う。誰もが納得できるようなバリアフリーの形とは、おそらくその先にしかない。
この件に関してネットに上がったコメントの中から興味深いものを取り上げてみよう。
まずは「変え難い現状をどうにかして変えようとしたときには、行儀の悪いやり方に頼らざるを得ない場合もある」という意見だ。
今回のケースでは、JR側に事前に連絡すればトラブルにはならないであろうことを知っていながら「敢えて」健常者と同じように振る舞い、(当然のように)騒動が起こったことや、またマスコミを現場に呼ぶなど「敢えて」騒動に持ち込むような対応を取ったことなどが該当するだろう。ブログ主本人も「弁えない」ことを公言しているので、騒動を起こそうとして旅行を企画したわけではないにしろ、少なくない確率でトラブルが起こることを予期していたのは、おそらく間違いないだろう。
これも程度問題になるのだが、こういった「周囲の耳目を集めればいい」「俎上に載せられれば勝ち」という姿勢は、極言すれば「まったく関わりのない第三者に害が及ぶ」という可能性を肯定することになる。
たとえばデモを企画した場合を例に考えてみよう。事前に届ければ種々の規制を受けることになり効果は薄れるので、敢えて無届けで行ったとする。結果、予期せぬ群衆の巻き込みなどが起こって道路規制が間に合わず、事故や救急搬送、災害対応などへの影響が出る場合も十分に予測できるはずだが、無届けデモの主催者はそれも「必要悪として肯定する」ということになる。
今回のケースで言えば、もし事前に連絡していたとすれば、無人駅での対応はもっと安全性が担保されたものになった可能性を考えることができるだろう。サポートする側も、とりあえずかき集めた4人ではなく、体力に余裕のある人員を予備も含めて用意できたであろうし、また駅員の急な派遣によって周辺駅の安全性が落ちることもない(元から用意しておけという批判は「この時点」では当てはまらない)。それによって駅員が怪我をしたり、列車の安全運行に妨げが出たりという「危険性」を極力下げられたであろうことは疑いないし、敢えてそうしなかった、というブログ主に批判が集まってしまったのは、半ばやむを得ないことだろう。耳目を集めるための行動も「程度問題」なのだという意識さえあれば、そういう危険性も生じなかったであろうし、批判も今よりは柔らかなものであったはずだ。世界や資源は有限であり、誰もがそうと意図せずに加害者になり、被害者にもなり得る。ならばこそ、相手に寄り添って考えるための余地が求められるのではないか。これもまた配慮であり、儀礼の一種だと考えてよいだろう。
さて、ここでもうひとつ興味深い指摘を紹介する。「障害者たちは、社会の中で自分が感謝されるという機会を最初から奪われているために、他者に感謝することができず、ケアを受けるのが当然という姿勢になってしまう」というものだ。
共同体における「贈与」とそれに対する「返礼」とは同等の価値を持つべきものだが、決して「同じもの」にはなり得ない。これは狩猟社会において「肉と肉を交換する」ことがありえないことを考えればすんなりと理解できるだろう。狩りに出て「獲物を捕る」人と、家に居て「料理を作る」人の「異なる行為の交換」をつなぐものが感謝であり、これもひとつの儀礼である。ところが、最初から「感謝されるような行為を取り上げられている」多くの障害者たちには、交換するに値するようなものが存在しない。これは彼らにとって非常に「心苦しい」ことなのだそうだ。
長年障害者支援の場で彼らと向きあってきたという、とある経験者によれば、彼らはこの苦しみから逃れるために「これは天から与えられた当然の権利であってそれをつなぐ儀礼など不要である(=私が一方的にケアを受けるのは当然だ!)」というストーリーを求めてしまうのだという。
この記事の冒頭にオイディプス王のエピソードを引いた。この伝承が示しているのは、「目が見えない」ということは「この世界のものは見えないが別の世界のものが見える」というロジックである。この世界に住まうものたちはすべからく、真実(時空を超えた事実、過去や未来の出来事)を見ることができないために、不幸に陥ってしまう。たとえば未来に起こりうる災害を予測できるのであれば、そのために対策を練り、不幸を回避することも可能となるはずだが、我々「普通の人間」にはそれができない。もし「それ」が見える存在がいるとするならば、その存在とは「我々とは違うものが見えているゆえに我々が見えるものは見えないはずである」と、古代人たちは考えたのだ。このように、古代のいくつかの共同体では、障害を持つ人々は「特別な職能」を持つものとして扱われてきた。(ほかならぬオイディプス王自身が、足に障害を持つ人物として設定されており、この足の障害は王権の象徴のひとつであったりもするのだが、この論では割愛する。)
日本に目を向けてみても、視覚障害を持つ人々に特権的、優先的に与えられてきた職能がいくつかある。琵琶法師、按摩師、鍼灸師、瞽女などがそれだ。彼らもまたオイディプスの例と同様に「目が見えない=違う世界が見えている」というロジックから導かれた存在であるといえる。例えば按摩師、鍼灸師などは、健常者には見えない「体の中の経絡(ツボ)が見える」のであろうし、琵琶法師や瞽女たちは過去の事実を見ることができるゆえに「眼前に再現できる」からこそ、その職能を付与されているのだと考えることができる。琵琶法師の語る「平家物語」がなぜあんなにも哀愁を誘うのかといえば、彼らが「今」「まさに」その悲劇の有様(過去)を見ているからに他ならないのだ。
政ごとに携わってきた人の意図なのか、あるいはそうでないかは置くとして、このように過去の時代においては、障害を持つ人びとにも社会参加の手段が存在し、感謝されるという機会があった。また比較的新しい時代でも、いわゆる見世物興行的なパフォーマーは近年に至るまで数多く存在していた。もちろん障害者たちを単に「嘲笑の対象」とするために興行主が彼らから搾取するようなものは、人権侵害であって無くしていかなければならないが、彼ら自身がその得能によって誇りを持てるような場合はその限りではないだろう。
人間は、自らの行為に対して感謝を受けることで、共同体の一員であることを学ぶ存在である。しかし障害者たちはその機会の多くを奪われているために、自分が共同体の一員ではなく、その輪の外側に居て独立した存在であるという意識を、そうとは意図せぬままに持たされてしまうのだ。ゆえに彼ら(の一部)は、自らの権利は声高に主張するものの、譲ろうとする姿勢は乏しい(そういう傾向がある)。感謝などは心の中ですれば十分であり「わざわざ」声に出す必要など感じない、といった具合だ。話題になった障害者の方のブログには「健常者も声に出して駅員に感謝などしないではないか、私たちもそれと同じであるべきだ!」というような内容の記述があったが、これはそういうストーリーが後付けで求められている証拠でもあるだろう。なぜならば、多くの人が日常的に目にするように、駅やバスなど公共交通の乗り降りで感謝の挨拶を口にする人は少なからず存在するからだ。
自分が共同体の一員である、という自覚や誇りの意識があってこそ、社会に問題が発見されシステムを変える必要が生じたとき「自分をも変える」という選択肢が生まれる。「共同体」の構成員として、社会を変えることとは、そこに存在する自分も変わることと同義なのだ。その輪の外側に自分が置かれているという意識に留まっていると、社会の変革と自分を関連づけられない。つまり、自分を変えないままで自分の思うままに(=欲望のままに)、社会を変えなければいけないのだと「思い込んで」しまうのではないだろうか。共同体における儀礼とは、自ら何かを差し出すことでもあり、自分を変えることでもある。自分を変えることとは、言い方を変えれば一種の自己犠牲である。その世界観においては「私」が変わることで「社会」も変わるのだ。
障害者の社会参加の機会を減少させた要因は、現代において個人主義や人権思想の高まりが少々行き過ぎてしまったことにもあるだろう。個人の人権が最大限尊重されなければならないのはもちろんだが、目に見える部分だけを見ていては気づかないものもある。見えない部分を見ようとすること、少なくとも目に見える形でのワンクッションを置くこと、これが儀礼なのだと思う。
個人が持つ感覚は狭い。自分には見えないものがある、ということを前提に行動することも、社会に暮らす人びと皆が幸せに向かうための、ひとつの方法なのではないか。
(了)
Written by : M山
※初稿ではミゼットプロレスについて、とあるブログを引用して「人権思想の高まりによってテレビなどの表舞台から徐々に姿を消していった」という内容を記載しておりましたが、興行の衰退は「度重なる選手の負傷や小人症の治療法確立などによりレスラーが減ったこと」が主たる理由であったとの指摘を受け、当該部分を削除いたしました。