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儀礼のその先にあるもの

 古代ギリシアの中心都市アテネの守護神アテナとは、ゼウス以下オリンポスの神々(征服民のもたらした父性原理の神話)と、被征服民の地母神信仰の対立を終わらすべく創出されたハイブリッド神である。
 古代ギリシア世界では、現世における理不尽や不幸は、征服者オリンポスの神々と地下に追いやられた地母神たちの「呪い」の対立によって生み出されるとされ、神々を和解させる「儀礼」を執り行う事によって現世の不幸も解消されると考えられていた。
 この「儀礼」の、ひとつの究極形が新しい神(アテナ)の創出だったということだ。神々の争いは互いが不死であるからこそ決着はつかず、そのため現世(人間)は永遠に不幸に悩まされる。これがギリシア悲劇の基本構造だが、アテナは女性(地母神)の呪いをまとわずに男性神から産まれた女性神であり、地下からの呪いとそれに伴う対立を中和させる存在である。ゆえにアテナに守護された都市国家アテネは、理不尽な不幸から遠ざけられるはずだという理屈。(ちなみにこれと対比されるのがデュオニソスで彼はゼウスの股から産まれた男性神。男ながら混沌の性質を持ち、女性信者を従える陶酔と狂乱の神。)
(参考記事:グリム童話考察⑩/ギリシャ悲劇について 1

(引用元:https://twitter.com/ganrim_/status/1372494673982320643)

(引用元:https://twitter.com/ganrim_/status/1372507171913539585)


<以下本文>

 ジョーゼフ・キャンベルによると、先史狩猟採集共同体では、女性と男性は「敵対」もしくは少なくとも「緊張関係」にあったという。女性の持つ出産という「実在の魔力」に対し、男性は秩序という「虚構」を作って対抗した。これが秘密結社であり、その秘儀は死からの再生(女性という迷宮からの脱出)であった。
(参考:『ジョーゼフ・キャンベルの神話と女神』/ジョーゼフ キャンベル(著)・倉田真木(翻訳)/原書房 )

 女性すなわち女神の体は迷路として認識され、男子がその胎内をくぐるとき女神はその迷宮の半分を隠し、冥府に閉じ込めようとする(この意味で女性は男性の敵だった)。秘密結社は、この隠された迷宮の道順を教えるべく、男性シャーマンが加入者(少年)に対し助力をするための場所であった。
 民話中で、そこに行った者は誰も生きて帰ったことがないといわれる魔王の城の「通り抜け方」を教える老人や森の狐は、つまり動物などに身を変えた祖霊なのであり、彼らがシャーマンの口を通じて少年たちに助言を与えているということ。老人や動物(祖霊)に優しくした主人公だけがそれを授けられる。

 ここでいう男性の作り出した秩序とは「言語」を用いた「論理」だったわけだ。先史社会のある時点までは男性は女性の持つ魔力(=冥界力)によって一方的に呑み込まれる存在だったが、それに対抗すべく論理を発達させていった。虚構とは男性権利を拡張する試みでもあった。

 誤解を恐れずに述べるならば、女性性とは、男性性が持つ「闘争」という本質が産み出したエッセンス(強い遺伝子)を呑み込んで自己のものとしてしまう存在であり、つまり生物とは本質的に女性性が男性性を搾取するように作られている。
 このことは、社会性昆虫であるアリやハチの共同体を観察するとき、あるいは最強オスが多くのメスを独占するハーレム集団を形成する哺乳類の種の多さ、また植物の花弁の中央でめしべを取り囲むようなおしべの配列、はては卵子に向かって我先にと泳いでいく無数の精子など、生物界の様々な現象から容易にイメージできるだろう。この意味でオスとは、メスにとってより良いコピーを製造するための「道具」に過ぎない。いっぽうで女性性の本質とは、自らの肉体によって自らの命をコピーする力(出産=不死性)だと言える。

 偶然の進化によって他の生物には無い発達した伝達方法「言語」を獲得し、自らが道具であることを知った(絶対死を運命づけられた)人類の男性たちは、女性たちが生得的に持つこの本質=魔力を恐れ、そして妬んできた。男性はいつしか言語によってこのルサンチマンを逆転させ、論理、秩序、虚構というアイテムを用いて女性の持つ「冥界力(出産=魔術によって命をコピーする力)」を囲いこむことを企画してきた。この秩序・虚構が「社会」であり、女性たちを囲い込む牢獄が「家(=家父長制)」だった。これが古今の物語における「王国と冥府」という構造だ。
 有史以来、男性は女性の持つ魔力を常に恐れ、その復讐に怯えながら牢獄の壁を更に高くしようとしてきた。その顕れが神話や民話などの伝承なのだとも言えるだろう。

 だがこれは次のようにも理解できる。

 女性性も男性性も相手が無ければそもそも存在ができず、互いに別の生物でありながら一つの種を形成している。このバランスの中で、女性は男性に「搾取」されながらも、(もともと女性性をコントロールするために)男性が発達させてきた「秩序」が産み出す利益を享受してきた。つまり人類においては、搾取と共生とは相反する概念でありながらも、不思議と両立し得る(というより、どうしようもなくそうなってしまっている)のである。

 また逆に、男性は女性の復讐(冥府からの呪い)を常に恐れ、抑圧を強めようとするのだが、これは生物として本質的に女性よりも劣っていることを知っている(やはりどうしようもないルサンチマンがある)ためであり、よって彼らはこの冥界神との和解を模索しようと試みる。このとりなし(儀礼)を託されたのが、社会を統べる「王」という存在であり、あるいは神話における「英雄」であり、またあるいは「両性具有の神」なのである。


 おそらく昨今のフェミニズム運動の本質とは、「生物という存在が本質的に持つ女性による搾取→男性の秩序構築(虚構の創造)による逆転搾取」といった歴史的な構造から「生殖に関する主導権」をもう一度彼女たちの手に奪い返そうとするものだ。その是非はもちろんここでは問わない。しかしそうなれば、当然その過程において彼女たちは、男性が特質として持つ「闘争」という本質から発生し、そして発展させてきた「論理」や「秩序」「社会組織」といったものが産み出す果実の一部を、一旦手放さなければならないだろう。
 男性の闘争本能を離れたその果実は、(少なくともしばらくは)それ以上大きく成長することが適わなくなるかもしれない。その先にはおそらく安定か、あるいは退廃か、いずれかの道が開かれているのだろう。いや、それも生物が必然的にその身を浸している大きなダイナミズムの中のひとコマに過ぎないのだろうか。


(了)


Written by : M山