見出し画像

仲間たち

いつでも冷静沈着なゴリごおりくんからバトンを引き継ぎますのは「たろう」こと石田翔太朗です。
翔太と2トップをやった際に紛らわしかったので「たろう」となり、
高校では○○○たろうが多かったので「しょう」と呼ばれていました。
そのためショウタロウと呼ばれることの方が少ないですね。

書き出しはここら辺にしてブログをはじめていきたいと思います。
トップバッターの主務條の引退ブログが始まって、そろそろ引退なのかーっと他人事のように思っていたらあっという間に自分の番になってしまいました。

さて、この引退ブログで何を書いていこうかなとずっと頭の片隅に入れて、考えながら過ごしていました。

まずはやっぱり5歳からサッカーはじめて今までの18年間分の石田翔太朗ヒストリーを軽く振り返ろうかなと思います。

自己満な文章になると思うので軽く流し読みしちゃってください!!

近所にフットサルのスクールができたので友達数人といったのがはじまりでした。
そこから、幼稚園のJACPAに入り、小学校では佐倉市ではまあまあ強い千代田FCに6年間在籍しました。
小学生時代は3年から大会が近いと一つ上の学年に参加していて、
3年の頃に4年の県大会で3位になったことがあります。

この当時はFWとしてまあまあ点は取っていて、一度味方のシュートのこぼれ球を詰めるだけでハットトリックしたことあります!!!

自分の代が小6まで県大会で一度も勝ったことが無いくらい弱かったので、5年の時には6年がいなくなったら、他のチームに行こうかなと思った時期もありました。
しかし、チームを移っても学校は一緒だから気まずいな~とかいろいろ考えた結果、そのまま千代田FCに残りました。
その時の自分の決断のおかげで今でもみんなと仲良くできています。

そして、中学時代
小学生の頃に通っていたドリブル塾のJSC千葉というチームに入りました。
このチームはとにかくドリブルばっかりで1年のころはパスをしてはいけない試合とかをしていました!

中学のころは1年の途中からほぼずっとスタメンで試合にださせてもらっていました。

しかし、中学では思うような結果を残すことはできず終わってしまいました。それでも中2の冬頃にジェフ千葉に誘われたのは自信になったし、自慢話でよくしています(笑)

つぎに高校時代

高校は今話題の八千代高校に入学しました。
八千代は中2の3月に声をかけてもらい、中3の5月くらいには体育科での推薦をもらいましたが、まあまあ頭がよかったので普通科で行くことにしました。

高校受験では人生で一番勉強しましたね、中々模試でも結果が出なかったので受かったときはとてもうれしかったです。

入学後、1年の6月ぐらいにはトップのリーグ戦にSHで出ました。
大学での自分を知る人はびっくりすると思いますが、中学ではボランチでボールを捌き、時には2,3人を抜いてゴールを決め、高1ではSHとして結構ドリブルで仕掛けていました。

高校でも順調にいくかと思いきや、夏で2つもカテゴリーを落ち、初めて試合に出れないという経験をしました。

その後、カテゴリーの変動を繰り返し、リーグ戦で点とったり、2年では選手権の一回戦でスタメンになったりしました。

3年ではリーグ戦開幕前日に捻挫をしてしまい、出遅れてしまい、試合に出たり出なかったりを繰り返しました。

それでも最後の選手権では人生で一番輝く瞬間が待っていました!!
準々決勝の相手はインハイで負けた、柏日体でした。

前半14分にペナ外からビューティフルボレーをかましました!
(見たい人はいつでも言ってね!!すぐに送ります!!)
喜びもつかぬ間、試合後にイエローの累積で準決勝に出れないとわかり、結局チームも市船に負けそこで高校サッカーが不完全燃焼で終わってしまいました。

そして、空白の1年を経て
学習院大学に入学できました。

最初は地域練だけで、しかも千葉の1年は八千代の同期亮と後輩の海だけでした。
そして、はじめて大泉での練習で一人だけバカみたいパスが強いかなたがいて、でっかいはやと小さいこうた、陰キャいじりされてた翔太これが同期との出会いです。

1年からリーグ戦のメンバーには選ばれていましたが、ベンチにいるだけでほとんど出ず、リーグ戦が日曜なので練習試合にも出れず、出さないならベンチに入れるなと当時はイライラしていました。
練習試合含めて、120分ぐらいしか試合できませんでした。

しかし、2,3年はFWからCBにポジションを変え、たくさん試合に出ることができ、4年ではFWに戻り今に至ります。

学習院は学生主体という環境で八千代では監督の指示でやっていたので、のびのびやれるのかと思ったら、もとき君という強烈な人をはじめ上手いひとばかりでいつもヒリヒリしながらプレーしていました。

もとき君のおかげ1年の時に一つ一つのプレーへの意識が強くなり、トラップも含めうまくなったのかなと思います。感謝と不満が半々ぐらいです。

学生主体という環境だからこそ、選手同士で言い合える環境、高めあえる環境が大事だと気づくことができたと思います。

振り返りはここまでで。。

つぎに何書こうかなと考えている今(執筆中)は
リーグ戦の前日準備を終えて、ヤマトとごおりと一緒にシリジャナでお腹いっぱいにナンを食べ終えたところです。

このように同期のみんなと昼ごはんや夜飯を食べに何回ぐらいいけるのかなと考えると流石に感慨深いですね~

引退したらみんなと会いにくいし、気軽にごはんもいけないだろうし、
あと半年もすれば私たちは社会人となってしまいます。

練習や試合後に行く「同期」とのごはんの楽しさを会社の「同僚」との食事が勝ることなんてないんだろうと思います。

もちろん、かわいい後輩たちとのごはんも楽しかったなー(数回しかないですが…

特に自分たちの代はコロナのために食事の場についての制限が多くて、みんなで楽しく食事に行くことが難しかったです。みんなでワチャワチャするのが好きでしたし、入学前に想像していたものとは違ったので、そのギャップに対してもどかしさが当時はありました。

それでも4年になってから、試合に勝って飲みに行って、カラオケでオールしたり、ボーリングに行ったりすることができてとても充実しているなと思っています。

同期のみんなと4年間一緒にサッカーできてほんとによかった
同期のおかげで週6の部活、ときには2時間以上の移動、始発での練習を4年間続けてこれたと思う。

そして、いろんないたずらも受け入れてくれてありがとう
最近は左右田に多くしかけてるけど、やり返ししてくるのでやりがいがあるよ

サークルやアルティメットじゃなくて部活を選んでよかった

浪人だからってことで、入るか迷ったけど入ってよかった

大学生になってまで週6での部活に入ってよかった

あの時の自分の決断を信じて良かった

そのおかげで大事な仲間に会えた

これまでのいろんな決断がここまで導いてくれた

これからもサッカーを通して会った仲間とのつながりを大事にしたいと思います。

最後になりますが、自分のこれまでの長いサッカー人生にかかわってくれたすべての人に感謝したいと思います。
ありがとうございました!

特に両親には遠征や合宿、道具、スクールの費用と数え切れないぐらいたくさんのことでサッカー人生を支えてくれました。
面と向かって言えないのでここでいいます。
本当にありがとう

以上で終わりです!!
次回は!!
1年の時には学部内の成績優秀者として表彰され、プライベートも充実している
才色兼備なマネージャーの重富玲奈さんです!!

普段なにを考えているのか謎めいている彼女がなにを書くのかお楽しみに!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?