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熱帯夜の決意

昔から、自分のことを「気が利かない人間」だと思っていた。何か決定的なことがあった訳でもないし、幼い頃から所属してきた数あるコミュニティの中で、気が利かなかったエピソードが散見されたわけでもない。

でも漠然と「気が利かない自分」への劣等感がついてまわる。特に仕事上で段取りを組むときなど、気が利かない自分がどこかに現れてるんじゃないかと戦々恐々としてしまう。この気持ちを持つこと自体が煩わしくて、なんでだろうと理由を考えてみた。

そしてあっけなく答えは出た。母である。私のことを「気が利かない」と言う人は、人生において母だけなのである。そしてそれは、例えば母が料理をしているときにご飯をよそっておくとか、仕事で大変そうなときに洗濯物を取り込んでおくとか、そういう瑣末なことなのだ。大したことはない。けれど、22年間の実家生活の中で何百回と言われているその言葉は、知らぬ間に私の中で呪縛のように絡みつき、社会人6年目になった今も、その言葉が他者から出てくることを恐れて仕事をしているのだ。

私自身が母になってもうすぐ2年半だ。母になってわかったことは、
・母親はいつも正しい訳ではないこと
・母親の不機嫌は子供からもたらされるものばかりではないこと
この2つである。
私が母から気が利かないと言われたとき、それが本当に気が利かない事柄だったのか。今考えれば気にするほど大したことではなかったことの方が多かったと思う。そして私が気が利かないから母は不機嫌になってしまった、と長年勘違いしていたが、もともと不機嫌だったから私の気が利かない部分を見出しやすく、それをある意味八つ当たりのような形で指摘していた、思い返せばそういう日のほうが多かった。

子育てにおいて使われてきた言葉、向けられてきた言葉は呪縛になり得るのだ。でもそれは言われた本人は気付いていないことも多く、素直に「気が利かない人間」として28年間生きてしまう。親の存在というのは圧倒的で、特に幼い子供にとっては否定する余地がない。これは恐ろしいことだ。

私は、目の前の我が子を見ながら、この子はこういう子だ、と決め付けていないか?それを言葉にして彼に向けていないか?それが彼の、自由に伸びていく芽を摘み取っていないか?いつも頭の片隅に置いて子育てをするぞ、そう誓った熱帯夜である。

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