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本を読んだメモ3

■読んだ本

悪について / エーリッヒ・フロム

■ひとこと

こういうの、、読めるようになってるやん自分!
ちょっと拍手!👏(前なら絶対すぐ閉じてた) 
フロムさんって生きた時代がかぶっていないのに、
今の世の中を見て論じられているようにしか感じなかった。
ナルシズムとか言葉で聞いたことはあったけど、
こんな考察の深め方あるんやってシンプルに尊敬。。
愛するということだけでもめっちゃ尊敬やったのに、
違う意味での深さが増した感じ。
もう一冊、読み進めねばと思ったし考えて対話しておわり、
ではなく行動にも移す。
(全く一言ではなくなってしまった笑)


※あ、今回のnote長めです!

■線を引いたところ

・戦争は人間の本質である破壊性の結果なので避けようがないという敗北主義的見解を合理化する考え方

・どちらの側もだいたい、自分たちは攻撃に対して防衛しているという立場を主張する

・サディズムの目的は人間をモノに変えること、生命のあるものを、生命のないものに変えることにある

・幼児期に他人とあたたかく愛情深いふれあいを持つこと。自由であること、脅威がないこと。内なる調和と強さを助ける原則をーー説教ではなく模範によってーー教えること。”よりよく生きるための技術”を指導すること。他人からのよい影響とそれに対する反応。本当に張り合いのある生き方をすること。この逆の条件下では、ネクロフィリアの発達が助長される。

・人が全面的な破壊を恐れないのは、生を愛していないから、あるいは生に無関心だから、さらには多くの人は死に惹かれているからとさえ考えられる。
これが一番ヒットした。。生を愛していない、生に無関心っていう言葉さえ使ったことも考えたこともなかった。でもとても的を得ているように感じた。

・巨大な生産拠点、巨大な都市、巨大な国家では、人はモノのように管理される。

・映画、漫画、新聞がセンセーショナルなのは、破壊、サディズム、残忍さについての描写にあふれているからだ。

・ナルシシスティックな人が、”自己像”をその愛着の対象とするとき、自らにつながるすべてに同じことをしている。自分の考え、自分の知識、自分の家、そして自分の”興味の範囲”にあるものも、ナルシシスティックな愛着の対象となる。

・経済的、文化的に貧しい人々にとっては、その集団に属しているというナルシシスティックなプライドだけが満足の源となる。人生に”面白い”ことがなく興味が生じる可能性がないからこそ、極端なかたちのナルシズムが発達するのかもしれない。

・集団的ナルシズムには、個人的ナルシズムと同様、満足が必要である。あるレベルではこの満足感は、自分が属する集団は優秀で、他はすべて劣っているという共通のイデオロギーによってもたらされる。
→コミュニティで気を付けないとなあって思うポイントやも。政党も?会社も?地域も?

・戦争が始まってしまうと、各国政府が戦争に勝つための心理的な必要条件として、国家的ナルシシズムを高揚させようとすることは肝に銘じなければならない。

・極度にナルシシスティックな集団は、自己と同一視できる指導者を強く求める。
→ふと西野さん&西野さんコミュニティが浮かんだ。実際に中に入ってはいないけど、どんな感じなのやろう?💡 同時にわたしも一時期西野さんみたいな人が国のTOPになってほしいなって思っていた。たった一人に、強烈な指導者に変えてもらいたい、って考えていた自分。いたなあ。

・~実は愛ではなく二人精神病である場合が多い。
~互いへの深い真の関心を持たず、ナルシシスティックな人にとって、パートナーは決して独立した一個の人間、あるいは完全に実在する存在ではなく、ナルシシスティックに肥大化した自己の影としてのみ存在しているのだ。しかし病理的でない愛は、互いのナルシシズムに基づくものではない。それは自らを独立した存在として経験しつつ、相手に心を開いて一つになれる二人の関係である。愛を経験するためには、分離を経験しなければならないのだ。

→パートナーシップ観の一種のパンチだなあって思った。気付いたら一緒にいれなくなるカップルや夫婦がいそうだなと直感的に感じた。

・旧約聖書に「汝自身のように汝の隣人を愛せ」という言葉がある。これは少なくとも隣人を自分と同じように大切に思えるくらいまで、ナルシシズムを克服せよということである。

・人は自分が基本的に世界市民であり

・すべての国の教育機関が、個別の国ではなく人類の業績を教えることに力を入れれば、人間であることの誇りについて、もっと説得力があり人の心を動かすような主張ができるだろう。

・良性のナルシシズムの特徴はすべて、成果に目を向けているということである。特定の集団、階級、宗教ではなく、誰もが人間であることを誇れるような仕事を完成さえることをめざすべきなのだ
→これすごくないです、、? え、今この方向に向かっていないこと、各国が競争だ、自国の学力GDPをあげろだ、負けるな、お金だ、戦だ、待って??

「私はあなたである」、つまり自分と他人は同じ人間存在の要素を持っているのだから他人を理解できるはずだ、という感じ方にある。
→これもすごすぎません、、?自分の中に取り入れたい目線やなあって。めちゃくちゃ難しそうやけども・・!


・~人はふつう一連の出来事の、最初や二番目ではなく、最後の決心に注目するという事実
→その前段階にあった出来事、心の揺れにも気付けるじぶんで、心を向けられるじぶんでいたいなあって思う。最後の決断で判断しがち。きっと、何事も。

・彼の心はかたくなになった
・そして誤った道に歩を進めるごとに、自分が誤ったほうへ向かっていると認めるのが難しくなる

→岸田さーん。政治家のみなさーん。引いてほしかってんな、安倍さんの国葬実施前も。。

・そして私たちは、そのような非現実的可能性が存在しないという事実や、それを追求することは運命が自ら決定を下すことを隠す方便にすぎないという事実にあえて目をつぶる。可能性のないことが実現するという幻想を抱いて生きていると、自分に対してくだされた選択によって好ましくない災難が起こったとき、人は驚いたり憤慨したり傷ついたりする。その時点で、彼は他人を責める、自己弁護する、そして神に祈るといった誤った態度をとるが、責めるべきは問題を直視する勇気の欠如と、それを理解しようとする理性の欠如なのである
→これ、とってもヨノナカどんなカナ?で話したい!!

・私たちは自分の欲望を自覚しているが、その欲望の動機は自覚していない

・スピノザによれば、自由は与えられるものではない。それはある制限のなかで、洞察力と努力によって手に入れられるものである。精神的な強さと自覚があれば、選択肢を持つことができる。

・もし人間が自らの背後で働いている力に気付けば、もし自由を勝ち取るために最大限の努力をすれば、必然の鎖を断ち切ることができる。
→ずーっと、昔の人は、、言い続けてきてくれてはることなんやろうなあ。。

・人が本当に関心のあるものに従って行動する以外に、どんな精神的健康がるのか

・悪とはヒューマニズムの重荷から逃れようとする悲劇的な試みのなかで、自分を失うことである。

・”善”とは、私たちが設定した人間本性のタイプに近づくための手段になると、私たちがよく知っているものを意味する。”悪”とは、そのタイプに近づくのを邪魔するとよく知っているものを意味する


おしまいです!
この本のこと一緒に話せる人、地味にゆるーく募集しています☕
(もしくはこの何かイベント立てるかな。。💡)
ご興味ある方は、そっと声かけてもらえたら嬉しいです◎

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