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二眼の深海魚(草案)

一台のカメラが手元にある。二眼レフというタイプのクラシックなフィルムカメラのひとつで、レンズが二つ、部屋の薄暗い一角では深海魚の瞳のように光っている。これは祖父の遺品から出てきたカメラだった。

Yashicaflexという銘板がある。このカメラを段ボール箱から掘り出したとき、状態は決してよくはないが、かといって致命的なほどではないように思われた。全体に白や赤茶の汚れやカビなどが見られたが、根気よく掃除していったらそれなりに見られるくらいにはなった。レンズ内にカビやチリがあるのはもう仕方ないだろう。

私は今、ほかにデジタル一眼レフやフィルム一眼レフ、大柄な中判カメラやコンパクトフィルムカメラなども持っているが、この二眼レフの造形はほかのものとは違った、建築物のような佇まいと、それでいてコンパクトにカメラとしての機能を凝縮した不思議な製品の美しさを感じる。

これを実家から拝借してきたのは2019年の1月のことだ。

当時はまだ中判フィルムカメラは持っていなかったので、喜んでカメラ屋で使い方を教わってさあフィルムも詰めて、と思ったのだが、残念ながらシャッターが動かなかった。動くときもあったが、どうやら不調らしい。結局そのとき後日入手する予定のゼンザブロニカS2の予算のことなどもあって、修理は諦めてしまった。インテリアとして、祖父が持っていたカメラで唯一残っているものとして、手元に置いておければいいなと思って放置していた。

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昨日、ふと何かの拍子にこのヤシカフレックスを手に取ったのだが、シャッターチャージをして切ってみると普通に動いた。何も修理はしていないので、きっと冬場で油がかたくなっていたのが緩んでいたのかもしれない。ただ、やはりシャッターのスピードが速くなるとちゃんと動いているのかわからない。羽根がびくっと動くだけでちゃんとした動作ではないのかもしれない。

このカメラで写真を撮ってみたいような気はする。

このカメラで撮ったであろう写真は、一枚しか見たことがない。私の曾祖母にあたる女性が縁側でこちらを振り返っている写真だった。見たのももうずいぶん前なので、写真やネガの所在も不明だ。父に訊いてみてわかるだろうか。他の写真は35mmフィルムカメラの写真が主だった中に、6x6のモノクロ写真のそれが妙に印象深かった。

祖父が撮ったのだろうか。

祖父は入り婿だ。色々と家の中でも外でも厳しい思いはしたであろうことは、話の端々からうかがっている。父が好きだったという曾祖母(父からすればおばあちゃん)は柔和な方だったんだろうと思う。あの写真が家族の誰が撮ったのかはわからないのだが、それは十分にわかった。

祖父が亡くなるまでに私は写真を趣味にし始めていたが、祖父が昔のカメラや写真について言及することは一切なかった。だから、この二眼レフが出てきたとき、撮られていたであろう写真は目にしていたとしても、随分と驚いたものだった。あったんだ、と思った。

35mmフィルム一眼レフカメラも存在はしていたはずだったが、それは私が小さい頃に叔母が職場の方に譲ってしまったらしい。minoltaのフィルムカメラだったというから、時期的にもしかしたら私が執着しているSR-1だったのかもしれない。

何故祖父は写真の、カメラのことを話してくれなかったんだろう。

私が彼らの思う進路に、就職に進まなかったからだろうか。単純に彼らにとって写真やカメラは重要ではなかったからなのかもしれない。けれど、あの年代の人間の多くにとってそうであるように、写真やアルバムはやたらと大事にしていたと思う。

祖母は私が小学生の頃に亡くなったし、祖父はそれを追いたいように見えることもあったが、結局20年ばかり遅れて逝った。

祖父の写真をもっと撮っておけばよかったか。帰省の折に集合写真は半強制的に撮られていたが、もっとちゃんと対面して話をして、写真を撮っておけばよかったのかもしれない。そう思うが、相変わらず、私の感情の動きは鈍い。本当の意味で後悔が湧いてこない、まだ。私が祖父くらいの年になったら、後悔できるだろうか。そもそも、私は後悔という感情を何かと取り違えて生きてきている気がする。

違うな、私はこう思っている。祖父はどんな気持ちでカメラを触っていたか、どんな風に写真を撮っていたかが知りたいんだ。ねえおじいさん、あなたにとって写真はなんだったろう。職人であったあなたにとって、ただの手慰みだったのかもしれないが、あなたの孫はどうやら写真というものに憑りつかれているらしい。このカメラで撮ったら、写りこんで何か言ってくれるだろうか。それらは、故人との関係性を差し引いたとしても、私の中にあるのは人間関係において極めて不謹慎であるかもしれないが、ただの知りたいという欲求だ。

知りたかった、のではない。今になっては知りたいと思っている。知るすべはない。だからせめて、同じ機械を使って動きをなぞろうとしている。なぞったからと言って、何かわかるわけではないのは知っていてもだ。

このカメラで写真を撮れるだろうか。

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あの河に、ぎょろりとした黒目の大きな河童がいたとしたら、それは私に関係のある生命であっただろうと思う。