ニート姉と種明かしの日々

10月もアッと言う間に終盤に差し掛かっている。
アッと言う間だ。
アッ。

実家に戻ってきた9月、祖父が亡くなって始まった10月。
楽しかった大学生活。ここがちょうど転換期なんだろう。
京都で目いっぱいあほなことをした。必死に勉強した。身を削ってバイトをした。とんでもない失敗もした。たくさんたくさん刺激を受けた。
親に言えないようなことばかりした。
親にはとても見せられない醜態を大勢の前で晒した。
とても成長したと思う。ほんとに毎日充実してた。もがいて生きていたししんどい日々もあったが、それすら楽しかった。

その頃、親はどうしていたんだろう。

考える暇もなかったし、考えたくもなかった。
考えずに済んでいた。

「芸大に行く」と言った。反対された。でも勝手に、泣きながらその道を無理矢理進んだ。「絶対に一人暮らしをする」と言った。家の支出がまとめられた絶望的なスプレッドシートをもらった。仕送りなんていらないと言って下宿先のよくわからん書類に一人で一つずつ判子を押した。大嫌いな姉は、家にいてずっと偉そうにしていた。早くこんなところ出たかった。初めて下宿先で食べたチキンラーメンはとても美味しかった。私は自由を手に入れた。

この秋は、これまでの人生の、種明かしの期間だった。
お母さんにとっても、私にとっても、先生にとっても、おばさんにとっても。

という訳で時間があるときに種明かしシリーズをぼちぼち記していく。
今回はあんまり種明かし感はないが、我が家の悩みの種で、私が京都に行ってから家族の話題の軸になっていた姉のことを書く。


1.ニート姉

姉は気付いたらニートになっていた。

姉と私は幼稚園の頃から仲が悪かった。本当だ。私のあだ名は「白豚(はくとん)」だった。私ははじめ意味が分かってなかったが、「お前は白いブタだからはくとんやねん」と小学生だった姉はご丁寧に説明してくれた。いとこと姉と一緒にいたとき、ジェンガみたいな遊びをしていて私は「これに勝ったら白豚って言うのやめて」と持ち掛けた。姉は「いいよ」と言ったが、ジェンガは虚しく私のターンで崩れ落ち、姉はギャハハと笑って、私はいとこにまで「白豚!白豚!」と言われるようになった。あの屈辱と絶望と、怒りに震えた感覚は今でも忘れられない。

まあそんなこんなで姉とはずっと仲が悪かった。
しかし姉は大学に進学したタイミングでしばらく寮に入った。私は快適な実家ライフを送り、姉への憎しみも徐々に薄れていった。
そして、コロナ禍になる。
姉が帰ってきた。

寮からちょくちょく家に帰ってきたときはそうでも無かったのに、実家に再び住み始めたら態度が尋常じゃなく悪くなった。例えば、クイズ番組を見ていたとき。読書家で無駄に知識だけはある姉は、難しい問題を見て「え、これ分からん人おんの?」と父母に問いかる。二人が首を捻ると「ええ?うそやろ?ええ?(苦笑)」と「母も父もこんなバカだったなんて笑笑」とでも言うように煽りまくるのだ。誰にもの言うてんねん。
流し台に私のお皿がまざっていたら、丁寧に分別して絶対に自分のお皿しか洗わなかった。とにかく自己中なので私が姉のゆく道の導線にいたら容赦なくぶつかってきた。場所あんねんからよけろや。風呂は長いし電気代は無駄にするし、家族全員を馬鹿にしたような振る舞いをする。最悪だった。
でもそれに怒る人はいなかった。私は家で感情を出さないようにしていたし、「その態度は外で通用しないから、そのまま社会に出て苦労しろ」と思っていた。お母さんは基本的に厳しいが、性格に関してなにか注意することはなかった。そもそも忙しいし。お父さんは甘く優しいので一番なめられていたが、それゆえか完全に家族カースト最下位に慣れていたのか何も言わなかった。
そして、姉は寝る時間が長かった。
朝起きるのは早い。ごはんを食べて、母や父が会社に行くと、そそくさと汚部屋に籠ってずっと寝ていた。

コロナ禍だった。

だから、姉が大学に行っていないことに誰も気付かなかった。

私は実家を飛びだし京都に逃げ込んだ。そのとき、姉は大学4年だった。
思えば就活をしていない。でも私には関係なかった。姉の様子がおかしいことに目を逸らして私はその家を去った。

夏休み、帰省して母と話した。
「姉、就活してる?」
「してないねん…」
ですよね。母の表情は重かった。
「公務員試験ならまだ間に合うけど、公務員なりたくないって言うし、そもそも試験も難しいから今から勉強しても…」
「なにになりたいん?」
「知らんよ!あんたは何がしたいんやって何回聞いても言わへんねん!!」
母は姉の就職先を探し、求人を見つけてはスマホに送り付けているらしかった。うちは裕福ではないので働いてもらわねば困るのだ。そのトーク履歴はぎょっとするものだった。姉は勿論その通知を全部無視していた。

私はまた京都へ逃げ込んだ。

母と姉が京都に来た。私のバイト先にごはんを食べに来た。
母はおしゃれで美人であった。白のシャツワンピをきちんと着こなし気品がある。その横に、無駄に偉そうな顔ですましているデブがいた。髪の毛は整えようとしてるけどベタベタでなんだか汚らしく、服も一見きれいだが似合っていない。クソださい。メイクもしていない。
恥ずかしい。それでいて、私はなんだか姉が可哀想になってきていた。
たぶん母が最初にやるべきことはな、就職先を送り付けることじゃなくて容姿について助言してあげることなんだよな…。
私も、一人暮らしを始めなかったら化粧とかしていなかったと思う。そういう家だった。誰も悪くないんだけど、親の前で変わるというのは一番勇気のいることだったのだ。親は「私たちは容姿について気にしたことが無い」と思っている。そりゃ、気にする素振りを見せたことが無かったからね。でも姉はちょっと変わろうとしてるよ、変なら「変やで、こうした方がいいよ」と言ってやってくれ。母はそんなに綺麗じゃないか。

帰省したとき、母は言った。
「前京都に行ったとき、お姉ちゃんちょっと元気やったやろ?」
「?そうなん。」
「京都行く?て言ったら、行くって言うから…。」
「普段家でーへんの?」
「まあ出るって言っても最寄り駅までなら普通に行ってるけどな。」
「ふーん」
姉は部屋で寝ていた。

どうやら姉は本格的に引きこもりの道を歩いているらしい。
私はまた京都に逃げ込んだ。
楽しい日々を送る。

年末家に帰ったときだったか、衝撃的なことを言われた。
「お姉ちゃん、病院いってん。」
「ん?風邪でもひいてたん?」
「いや、精神科」
えっ
ええ?
「え、鬱?」
「うん、なんか軽い鬱っぽいかなって薬もらった。」
「え、そんな?そんなやばいん?」
「20代半ばの人間の振る舞いじゃない。子供すぎる。」
うそだろ思った。
正直、姉には「甘えや」と思った。お前の普段の振る舞いの皺寄せがきてるだけで、自分がしんどくなるんは当然の報いやねんから病気に逃げんなと思った。薬もらってもテメエの性格が変わるわけじゃない。
母には、「大げさだ」と思った。あなたの娘ははじめから何も立派な人間じゃないんだから、こんなもんなんよ。あなたがこれ以上手をかける必要なんてないんだ。
そして恐ろしいことに、母はメンタルヘルスの勉強をしていた。資格の本を読んで、仕事終わりのくたくたな夜にテキストを解いていたのだ。
怖い!!なにこの家族!!
悪いの全部姉じゃん!!
これ以上母に迷惑かけんな!!お前部屋で寝とるだけやん!!

しかし、京都でずっと呆けていた私は何も分かっていなかった。

なんでもない夜。ご飯を食べて、お風呂からあがって、まったりしていたときだ。
母はぽつりと、さらに衝撃なことを言った。
「なんかな、ちょっと自殺未遂みたいなこともあってん。」


は?


言葉が出なかった。
「ゆうてもな、首つりとかじゃないねんけど」
「…」
「ここにあった薬瓶の中身のな、錠剤を、一気に全部飲んでんて」
「…で?なんでそんなんわかんの?自己申告したん?」
「そうやねん!」
生気の無かった母の声に怒りの色が帯びた。
「『これ全部飲んだから』ってパパに言ったらしいねん。空の薬瓶をもの前にコトンって置いて!そんなん言われたらなんもできひんやん!そんなん脅しやん!!!パパの愛情を利用して!!!」

さ、最悪だ…………
楽観視していた
事態は深刻を極めていた。

その後、父が帰ってきて一人でビールを飲んでいたとき何気なくリビングのテーブルに座ると、父はこっち見ずに言った。
「お姉ちゃん、死のうとしたんやで」
「聞いた」
「あっそうなん」
「…」
「次(薄情者)が家かえってくるときは、姉ちゃんの葬式やった可能性もあるんやで。」
お父さんは、私を怖がらせようとしてる感じで言った。
怖いのはあんただろ。
「一緒に年越せそうで良かったわ」
ビールをぐいと飲んだ。

私、母、父でいたとき、母は「お姉ちゃんにどうにかして働いてもらわないと、だってママが死んだときどうするんよ」と苦言を呈した。しかし父はスマホゲームをしたまま微動だにしない。「あんたもなんか言ってよ」
父はスマホから目を逸らさず、しかし珍しく怒気の籠った声で言う。
「お前がそうやって(姉)を追い詰めるからやろ!(姉)が死んだらどうするん。」


地獄か!!!!!!


いやもう、知らんし!!!!

そんな話を聞くたび泣きたくなった。
ごめんねこんな娘たちで!!!
別に私は姉が死んでもいいねん!!!楽しかった思い出なんかひとつもない!ごめんね!!私が生まれて初めてつけられたあだ名は白豚なんですよ!!友達もおらんのに結婚なんかする気配ないから子供も望めへんし!!あいつが生きてて私が被るメリットなんやねん!!親の介護はしてくれるんかな!!?姉が一人で老いてボケても私は絶対あいつの介護せえへんからな!!!!!

けど姉が死ぬことでお母さんやお父さんが悲しむところを見るのが、私はとんでもなく怖いんです!!!
だから死ぬなよ!!!!!
生きとったらどうにでもなるやろ人生!!!!!
これ以上親に迷惑かけんな!!マジで!!!!!!!


さすがに、私もちょっと姉と話をしようかと思った。
親がこんだけ色々やっても事態は何も進展しないし。親に本音を打ち明けられない、姉の気持ちがちょっと分かるのもまあ事実だ。
けど私は姉とまともに話したことが人生で一回もなかった。
いやほんまに。「洗濯物干しといて」くらいよ。
どうやって話せばいいんや……

私は京都に逃げる直前に話しかけることにした。何かあっても私には京都がある。逃げる場所があるんだ。私は逃げる場所をつくったんだ。
私はダイニングでメイクをしていた。姉は隣のリビングで寝っ転がっている。姉は寝てるとき以外は絵を描いていた。そして私たちは自分が描いた絵を家族に見られたくない人間であったので、姉はリビングで描くくせに人が来たらサッとそれを隠した。プライドが高いから「へたくそ」と内心思われてるんじゃないかと怖かったのである。(事実、私は姉の絵が不覚にも目に入ったとき「へたくそがw」と鼻で笑うような顔をしていた。)
お互いお互いのことを見ていない。
今がチャンス。
私はどんどん変化してゆく自分の顔を鏡で見つめながら、二人しかいない空間に言葉を放り投げた。
「これからどうするん」
姉のぶらぶらさせていた足がピタと止まった。
「…なにが」
「就職とか」
「あンッたには関係ないやろ」
そこでやっと分かった。
ああ、姉は病気かもしれない。
明らかに異常だ。
会話はできてる。言ってることは普通だ。でも

「あンッたには関係ないやろ」

の声色が、明らかに正常では無かったのだ。

私は初めてのその体験にちょっとドキッとし、「この話を続けてはいけない」と本能的に悟った。そして極めて冷静に、アイラインを伸ばしながら返した。
「関係なくはないやろ。」
「…。」
「別になあ、今すぐ就職しろとは言わん。でもこれ以上親に迷惑かけんな。引きこもりになるならもっと明るい引きこもりになってほしい。」

「死ぬな」は結局言えたんかな?忘れた。
けどこれが私の精一杯だった。
姉のあの声を聞いたら、これ以上姉を否定することはできなかった。可哀想とかじゃない。保身のためだ。結局ちょっと肯定するかんじになってしまった。でも確かにこの様子のまますぐ就職なんてできるわけない。ちょっと明るい引きこもりになるくらいを目先の目標にするべきだというのは我ながら的を射ている気がした。

そして私はそそくさと京都に逃げ込んだ。
阪急電車に揺られながら、姉にYouTubeにあがっているシソンヌの「うちの息子、実は」というコントのリンクを送った。ひょうきんな引きこもりの話だ。姉にはこうなってほしかった。そしてブラウザを早々に閉じると、京都の暮らしにどろりと溶け込んでいった。

次帰ってきたときに、姉が留年したことを知った。
卒論を出さなかったうえ、単位も全然足りなかったらしい。勉強はできるしそんな心配はあまりしていなかったので、ああちゃんと大学にも行かず病んでたのかあと思った。

そして、姉がついにアルバイトを始めた。
母が何を言っても提案しても聞かなかったのに、いとこの母・おばさんの紹介で小さな塾の講師を始めたのだ。大学受験というよりはもっと小さい子たちで、学童も同時に受け持った。
引きこもり姉の、大きな大きな前進であった。

そこからしばらくは実家に帰ってもなんの変哲もない暮らしがあった。姉はアルバイトには行くし、母も落ち着いた。私はたまあに実家に帰ってはすぐ京都にとんぼ返りする。そのうち留学云々で自分の方が大変になり、姉のことはすっかり忘れていた。


そして、今。実家に戻ってきた。
姉は、非常に普通の娘になった。
あの自分のことしか考えなかった姉が、人のことを考えるような動きをし始めた。例えば洗面所で髪を乾かそうとするとき、私が風呂から出てくる気配を感じると洗面所の外に移動してドライヤーを使った。たまに(母のために)スイーツを買って帰ってくるようになった。蕎麦も生のままではなく茹でて食べるようになった。お通夜の時、いとことまあまあしゃべっていた。見た目も変わった。めっちゃ痩せたし、化粧もするようになったし、化粧の話を母にできるようになっていたし、服や鞄も自分で買い、清潔感が生まれた。
…か、かかか変わったなあ!
私がいない間、私の部屋は母が使っていた。本棚にはメンタルヘルスの教科書がまた増えていた。姉がドーナツを得意げに買って帰ってくると、母は「え、めっちゃ嬉しいねんけど」と大げさに喜んだ。姉はそれを見て満足そうな顔をする。なんだこの茶番。幼稚園児か。褒めることが大事とメンタルヘルスの教科書に書いてあったんだろうな。ごめんな母さんもう年なのにこんなお手数おかけしてな。

でも本当によくなっていた。鬱は抜け出したっぽかったし、家族の関係も良好になった。(父と母は反動でさらに仲悪くなった気がするが。)
精神科に行ったときは大げさだ、分かってないなあと思ったし、メンタルヘルスの勉強をしていたときは馬鹿真面目だなあと思ったけど、そんな母の苦労が結実したのである。本当にすごい。分かってなかったのは私の方だ。

かと言って姉はまだアルバイトの身分である。母は勿論「このままではいけない」と思っているし、就職するまでまたひと悶着あるのだろう。

でも、この親子ならなんだか越えられそうじゃない?母が大変すぎるけど。
ちゃんと親孝行しような。
おれもな!


ちゃんちゃん





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