「それっぽい」からの脱却

「好きなことをとことん追求しろ!」

人は言うが、私はこの言葉を右から左に受け流して生きてきた。
どうもムーディー薄情者です。


今日はマミイと京都の村上隆展に行ってきた。


私は昔から友達が面白くてしょうがなかったし、親の前で自分を出すことは恥ずかしくてできなかったし、だからその分外にも出ていったし、
自分の内を充実させることより人に頼って生きてきた。
あれだけ高校のとき熱中していたエイペックスもモンハンも、大学に入った途端ピタリと辞められた。皆と通話しながらできるのが楽しかったんだろうな。
服も別にこだわりがなかった。「とにかく自分に似合う服だったらなんでもいい」とよく言っていた。他人に選んでもらうことも多かったし、とにかく安かったら買って、でも結局あんまり着ないとかしっくりこないことが多かった。


村上隆展で買ったぷっくらシールを、パソコンのマークが隠れるように中心に貼る。黒もしぶくていいなと思ったが、見てて楽しい気分にしたいからやっぱり定番のレインボーフラワーに。
ぺかーーー
冷徹だった鉄の塊が、急にレインボーの放射状になったカラーとキラキラの目とパクっと大きく開いた口により、ぺかーーっと輝きだした。
いやしかし、これじゃなんだか物足りない。このレインボーちゃんは土台をつくってくれたに過ぎない。
私は大学の友達のパソコンを思い出した。私がポーランドで買ったシールをあげると、秒で自分のパソコンに貼っていた。別にすげえセンスよく貼ってたわけじゃないけど彼女の個性と歴史が見えるラインナップで、すごいよかった。
ちょうど去年の芸祭で買ったシールを机から発掘したところだった。
レインボーフラワーの中心から少し離れた角のところから貼っていく。卒業しちゃった大好きな先輩のシール、作品が大好きな同級生がつくったシール、ウーパールーパー…
うん、かわいい。
ワルシャワのホステルでおばちゃんにもらったベラルーシのシールも貼っとこう。イギリスで買った激安のステッカーも。そういえば絵本作家になった小学校ときの先生が個展を開いたときに買ったのもあったな。あれはふちが白くないからちょうどバランスがとれる。カニさんにしよう。

うむ、なんか、よいかんじだ非常に。


収集癖があるわけではないのだが、「もったいない」という気持ちでものを使うのを躊躇ってきた人間であった。前大掃除したときにだいぶ捨てたものの、机の中には小学校のときから持っているようなメモ帳やらなにやらが使われずに残っている。部屋が汚く基本的に引き出しなんぞ全く開けないような人間だったので、その中にあるものなど基本ずっと閉じ込められたままなのだ。


最近家を片付けるようになった。
時間があるというのが大きな理由だ。バイトで働き詰めになっているとき、制作が忙しい時にこの生活を続けられる自信はない。
とはいえ、「片付けよう」と思うようになったのは私の中で大きな変化である。
あまりに大きな変化だったので、姉の汚部屋やリビングを見てよく考える。
「片付ける」いやむしろ「整える」というのは、「好きなものを見えるようにして、見たくないものを隠す」作業だと思うのだ。
今私が座っているこの机。小学校からある学習机なのだが、中二階みたいになってる本棚がいいかんじになっている。デンマークでつくったセラミックのかわいい置物、キューピー、マトリョシカ、ミュシャのノート、ミッフィー、かわいいペン云々、、、
ごちゃごちゃしてるし「すごく整っててきれい!」とはとても言い難いが、非常に気に入っている。
だからこれでいいのだ。こいつらに埃が被っていたら、私はきっとさっさとはたくだろう。こういうときのためにふわふわのはたきという商品があるのだ。便利だなあ。

やっと、自分の「個性」が出始めた。

とてもうれしい。

好きなものに囲まれて暮らすのはうれしいことだし、何より、たぶん私にとっては制作に非常に影響する。
例えば、私は今まであんまり自分の「好き」がなにか分かっていなかったので、制作において「それっぽい」ものを目指していた。
例えば芸祭のとき私自身シールをつくった。「手書きラフイラストってコスパいいしかわいいよな」と思って適当にそれっぽいものをつくった。シマエナガかいてたらかわいいって言って買うやつがいるだろうと思っていた。実際いた。色とかあんまりこだわらずにつくった。なぜなら「こうしたらもっとよくなるんじゃないか」という明確なビジョンが見えなかったし探そうともしなかったからだ。効率よくそれっぽいものを作りたかったから。
パソコンにシールを貼るとき、私は自分がつくったシールと対峙した。
ふむ、このハート鳥ちゃんはかわいいから貼ろう。この余ってる部分をハートに切ってここにひっつけて、んんもうちょい鮮やかな黄色だったらよかったのにな。
自分で作ったはずなのに自分の好みドストライクでは全然なかった。
誰かのためのそれっぽいものを作っていたから、だと思う。


最近服装もだいぶ変わった。今までお下がりのものをとりあえず着て、とりあえず足を出さないようにしていた。
ジーパンを履き始めたし、肌もそこそこ出すようになった。
アクセサリーもそれなりにジャラジャラつけるようになったし、初めて「ピアスあけよかなあ~」という気になった。
そして何より自分のそのスタイルがわりと気に入ってて、鏡見て下がり気分になることもなくなったし「誰とも話してないとき」の態度がちょっとでかくなった。でかくなったというより、かっこよくなったと思う。なんちゅーの、萎縮しなくなった。
自分の好きなものを選べるようになった。


インスタのコーディネート紹介してくれる人みたいなん見てたら、「着る」「着こなす」という、一つの服を二通りに着ている人がいた。「着る」の方は完全に今までの私である。
買うものの質とかもあるけど、私はただ着ているだけで自分流に着こなしてこなかったわけだ。同じ服でも着ようによってはいいかんじに着れるのに、その発見をせず悶々と物欲を垂れ流していたわけだ。


使ってなんぼ。
使ってなんぼだ。

「愛着」という言葉を作品を紹介する際よく使っている。そういうものが好きなのだ。人が愛着を持っているもの。愛着を持てるもの。
素晴らしいプロダクトでありのままでそれに愛着を持てるものもある。そういったものを作るべきだ。
でも、「使い手」の方にも「愛着を持つ」という技量が試される。
私はものへの愛着の持ち方を知らなかったのである。
知らないというか、発見できていなかったのである。意識のうちになかったのだ。
これから、そういう人の愛着を生み出すような、養うような、考えさせられるような、そんな制作ができたらいいなと思う。
愛着も一方通行じゃなくコミュニケーションで、生み出したい。

その一歩として、私がものへの愛着を持てる人間になりたい。
例えば、目の前で行っているのだが、「シールを貼る」という行為だ。一般に出回っているものに、ひと手間加えて私だけの意味をつくる。それで十分愛着が芽生える。
自分で、自分の生活の中にもっと関与していって、自分らしく生きていきたいなって思う。そして、我が家の姉にも母にも父にも、それに気付いてほしいなって思う。


そんな最近の話でした。またこの話は続くと思われる。アデュ!

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