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羽虫の人生

深夜、机に向かっていると、不意に目の前に3mm程の小さな黒い羽虫が着地した。
しかし見るからに弱っているようで、目の前に現れた時にも仰向けになってもがいていた。

僕は、潰されたり、食べたりせず生き残ったこの羽虫の最期を、静かに看守ろうと思った。
この名もなき虫(調べたところ、ユスリカではないかと思う)を看取ることが、少なくとも彼の一生の救いになればと考えたからだ。
彼は小さな頭と長い胴を持ち、透明な長い翅以外は黒一色の見た目をしていた。
僕の机の上で、たまに狂ったように飛んでは落ち、じたばたとしていた。30分ほど看守ったが、もがくばかりで死ななかった。
僕は彼が幸せに思うことはなんだろうと考えた。
こういった小さな羽虫の成虫には口が無いことが多いことを知っていたので、蜜をあげることも意味がないだろうと思った。

ただ、もしかしたら水を求めているのかもしれないと思い、羽虫の近くに水滴を垂らした。
しかし水はごく細かい彼の足や翅には粘ついた足枷でしかなかったようで、机に張り付いたまま動けなくなってしまった。
僕は気の毒なことをしたと思い、ティッシュペーパーでこよりを作り、水分を吸わせて取り除いた。
羽虫は手足は乾いたようでまた元通りになったが、翅は胴に張り付いたままになってしまったらしく、飛ぶことはなかった。

僕はまた、彼の幸せが何かと考えた。
おそらく交尾し子孫を残すことだろうと思う。だが僕は雌を用意することはできなかった。だから何もできなかった。
そうするうちに、動きが鈍りだした。
僕は彼をティッシュペーパーに乗せ、それを窓から風に流した。紙の船はふわりと窓の下の植え込みに落ちた。

彼は交尾を終えたのだろうか?それとも独り身のまま、寿命が尽きようとしていたのか。それか生まれつき不器用で、上手く生きられなかったのだろうか?
彼は何も害を与えず、ただ遺伝子を残すという使命だけを抱き、数日の生涯を終えるだろう。
だからこそ、僕は彼の一生の最期が、せめて安らかで幸せなものになって欲しいと心から願った。
暖かく柔らかなティッシュペーパーにくるまれ静かに目を閉じるか、みずみずしい土の上で幸福を感じながら最後を迎えて欲しいと思う。

少なくとも、部屋の隅で埃にまみれたり、浴室の水滴にへばりついたり、電球の中で熱死するような、悲しい死を迎えないで欲しいと思った。

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