イニシエーションとしての運転免許証

普通自動車免許の取得、車がなくても普通に生きていけるような土地に住む限りでは必ずしも必須ではなく、ドライブに殊更の興味関心がなければ、もはや「大人」になった証、イニシエーションとしての意味と、終活を終えて大学というエデンの園からシャバに放り出された際の身分証明書の取得としての意味しかないですよね。

なぜこんなことを言うかといえば車の運転が苦手すぎる。最早親に30万出してもらったから車校辞めてないだけだし、競馬で30万当てたら親に全額あげて車校から逃げ出すまである。

ここからはタイトルと全く無縁の愚痴です。

ちっちゃな頃から自他ともに認める空間認知能力オワオワリ人間だから車幅なんかは把握できないし、なおかつ極度のビビリで自転車のサドルもジェットコースターの手すりもガッツリ握るタイプの人間だから車のハンドルも強く握りすぎて変な力が入る。

更に言うと複数の情報を1つの頭で処理するのがやたらと困難で、路上教習中に両側に気が鬱蒼と茂った細いカーブの坂道でド派手に事故りかけたこともある。

もう一つ加えるならば教習中だけ左右盲になる。左に曲がれと言われているのに右に曲がりかける。あとマスクのせいで教官の指示が一切聞き取れず何をしたらいいか一切わからないことが多々ある。オタク君は耳が悪いからね。

そこらのヤンキーでも取れる免許に四苦八苦してるが、アメリカのクソマヌケでも話せる英語もろくに話せないからまあそんなもんだろうと思っている。

あとは1ヶ月後に迫る教習期限とどう和解するかに全てがかかっている。親の30万をパーにするか、無事に教習所を出所できるか、君たちは時代の目撃者になる。

追記:たった今(R3.6.11 0:21)思い出したが、私は教習所内の実技試験を"キープレフトの原則"を全く無視することでクリアした人間である。こんな人間は路上に出すよりも教習所から退学にするべきである。

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