管絃祭の御供船

御供船の由来

管絃祭の御座船に御供にする船のこと。

その起源について、「正徳元年(1711)頃、広島城下紙屋町の釣燈屋3代目市兵衛が嚴島神社の棚守職野坂氏の依頼により、管絃船が濡れないように雨具を寄進し、以降毎年手船で管絃船の供をした」という伝えがありました。

御供船の盛況

「厳島図会」には「16日の夕刻までに広島城下を流れる京橋川・元安川・猿猴川・平田屋川および本川から華麗な装飾を施した御供船が集まり、夜中一斉に宮島へと向かう様子、漕ぎ出すときの三絃・笛・太鼓を入れる祇園囃子、そしてそれを見物するため両岸や橋上へ押し寄せた見物人の様子が伝えている。」

「町ごとに華美を競ったので船数が益々多くなると共に、造作にも莫大な費用を要することになり、町民生活にも少なからぬ影響を及ぼした。藩はしばしば禁令を出して戒めたが容易に守られなかった」との伝えもありました。

「管絃祭が行われる6月17日、城下では家ごとに神燈を懸け、「管絃汐」と称して汐汲みする風習があった。神田橋の白島側の河原では、多数の町民が松明を持ち「火振り」を行う。」これらは管絃祭を遥かに祝う行事とされた。」

御供船は領主とは直接に関係なく、また氏子としての立場から町人が参加したわけでもなく、町人が都市の主体的構成員となったこの時期に創設された嚴島管絃祭の御供船は新たな形態の都市祭礼といえるだそうです。

最盛期には90余隻の管絃祭が出されたそうです。

宮島の市立祭の盛況

当時の宮島では、広島城下では許されなかった浄瑠璃・芝居・富くじ入札が藩から許可され、春・夏・秋の三市が立たされ、中には夏の市である市立祭は最も殷賑を極めたそうです。諸国から来る商人が小屋掛けをして、種々の商品を売り、芸人も渡島して様々な芸を披露した。土用の時期に大阪道頓堀の3大劇場が休業し、俳優が四方の招迎に応じたことなどにより名優も出演したため、領内外から多数の参詣・観光客が来島した。また宮島の市での商品には貿易品もあって、藩も時々これを求めたようである。

多くの人が広島城下町を経由して宮島に渡航して、管絃祭が終わった後の戻り客によって広島城下町の商況にも影響を及ぼした。

御供船の衰退

しかし江戸後期から明治に移るにつれ、御供船が衰退する流れに、明治を迎え新設された橋が拍車をかける。橋の高さが低いため、御供船が川を下り宮島に渡航することが物理的に難しくなってしまったである。また山陽鉄道の沿線開通で管絃祭にあたり旧広島市城を経由して船で宮島に渡島していた人々が直接に宮島口に移動して渡島するルートができたため、わざわざ旧広島市城を経由する必要がなくなってしまったのです。

参考資料:

「厳島神社管絃祭御供船をめぐって-広島城下町祭礼断章-」西村晃

「広島管絃祭の変遷と意義-忘れ去られた広島の記憶-」中道豪一

「厳島信仰事典」野坂元良 戎光祥出版



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