いちごつみ回文短歌/短歌調回文座談会・編集後記

回文になっている短歌(「回文短歌」または「短歌調回文」)で、いちごつみ(前の作品から一語のみを選んで自分の作品に含める。二語以上はNG)を、六名で敢行しました。その作品および座談会の模様をPDF(およびネプリ)で公開します。ぜひご覧いただきたいです。(短歌でない)回文の作り手、(回文でない)短歌の作り手にも面白く読んでもらえるのではと思っています。

回文短歌もいちごつみも制約を強いる創作行為ですが、力作を出していただき、充実した座談会になりました。動画からの文字起こし、編集を通じてよくよく議論を味わいましたので、その上で感じたことを述べたいと思います。お時間のあるかたはお付き合いください。

回文っぽくない回文短歌

「回文短歌の評価軸とは!?」の問いがこの座談会の主眼である。ひとつの答えとして「一読しただけでは回文とわからないような短歌」が優れた回文短歌である、という評価の軸には、私も含めてわりあい多くが納得するのではないかなと思う。例えば、十二首中、最多の特選票が入った

よく起きる駅で乗る猫(猫?)子猫(子猫?)寝るので消える記憶よ
(よくおきるえきでのるねこねここねここねこねるのできえるきおくよ)
/御殿山みなみ

は、パッと見ただけでは回文であることに気づきにくいのではないだろうか。そのことは座談会中でも私を含め複数人が特選に採った理由として挙げた。しかし、この歌に唯一票を投じなかった有櫛さんは、別の箇所でも

回文に見えない作品が良い、とは限らないんじゃないかという思いはずっとあります。

と述べているように、「一読しただけでは回文とわからない短歌」にいつでもポジティブな評価を与えるわけではない。

確かに、「良い回文短歌であるためには、回文であることに気づかれてはいけない」とする態度は、回文短歌のアイデンティティの大事な部分である「回文であること」を軽視しているとも言える。どうして回文短歌が回文であることを隠さなければならないのか。良い絵画が、絵画であることを隠さなければならないだろうか?そんなことはないだろう。反省するとともに、もう少し考えたい。

ここで、考えるための平行素材として、「一読しただけでは短歌とわからない文章」を考える。Wikipediaの記載内容から五七五七七になっている箇所を短歌として切り出している偶然短歌botさんのツイートがそれに該当するだろう。いくつか以下に挙げる。

また、ねむけさんもちょくちょくそのようなツイートをされる。

これら六作品(便宜上「作品」と呼ぶ)が、短歌として、あるいは文章(ツイート)として、優れているかを考える。「よく読めばこれ、五七五七七なんだ、すごい!」という感動は、確かに全てにある。また、その感動の量(補足)にそこまで大きな差はないように思われる(※)。その上で、短歌として優劣があるかというと、ありそうな気がする。このことは、「一読しただけでは短歌(五七五七七)とわからない」の評価軸だけではこれらの作品を評価しきれない…少なくとも、物足りない…ことを意味する。

もし同じロジックを回文短歌に使えるならば(※)、回文短歌に対して「一読しただけでは回文とわからない」の評価軸だけではやはり不十分である、ということになる。二つの(※)の仮定が入るので危うい議論であり、総評価に対する寄与の差など定量的な差(補足)はありそうだが、方向は合っていそうな気がする。というわけで、次節以降、「回文っぽく見えない」点以外の、評価軸となりうる点を考えたい。

(補足)定量性について、こんな実験ができればと夢想する。…回文短歌を、それとは告げずに単なる短歌(五七五七七)として被験者に見せ、回文であると気づくまでの時間を計測する。時間が長いほうが「回文っぽくない」度が高い。…時間、ではなくて、一定時間内に気づけた人数、のほうがまだ現実的かもしれない。被験者をたくさん集める必要があるが。

物語が見える回文短歌

ひざさんの「よく起きる~」の回文短歌のいいところは、座談会中でも(私を含め)述べているが、物語が見えるところだと思う。「起きる」で始まり、「寝る」「消える」で終わることで、物語の進む矢印、起承転結を読み手にうまくガイドできている。(この際に「起きる」と「寝る」の意味が対になっていることも、回文の対称性を愛でる観点から高評価できると思う。)

浅井さんの作品も、夏、プール、水着などの登場する物語を、無理のない順番あるいはロジックで思い起こさせ、参加者の並選を集めた。

恥じらうたび起きる風、夏、色、心 いつなぜカルキ帯びた裏地は
(はじらうたびおきるかぜなついろこころいつなぜかるきおびたうらじは)
/浅井

回文では、使いたい語の反対側に自分の意志とは関係のない言葉が勝手に出てきてしまう。この不自由さの中で物語を示すためには言葉に対する丹念な思索が必要で、そこを十分切り抜ける作品は少なく、評価されるべきなのではないかと思う。

面白くなってしまう回文短歌

見えてきた物語が、面白くなってしまうものもある。面白い、にもいろいろあるが、ここでは「コミカル」の意味である。

夏背伸びしに行く西のすき焼き屋 キスのしにくい西日の刹那
(なつせのびしにいくにしのすきやきやきすのしにくいにしびのせつな)
/罅ワレ

どのような物語なのか、どこが面白いのか、は、ぜひ座談会本編を見ていただきたい。特に、御殿山(ひざ)さんのツッコミは気持ちいいし、作者の罅ワレさんの反応も、作者を知って改めて読むと、回文の作者ならではだと感心する。面白さは、有櫛さんの言葉「何言ってる感」に集約されると思う。

座談会内でもコメントしたが、これを回文でない普通の短歌でやる…つまり「何言ってる感」を普通の短歌で出そうとすると、かなりハードルが上がるだろうと思う。この「何言ってる感」は、「意味が分からない」という致命的な低評価と紙一重だからだ。単純にコミカルな景を描いて面白い短歌、というのとも違うので、この評価軸を狙って普通の短歌で評価されるのはとても難しそうである。

この「何言ってる感」、(普通の短歌にはない)回文短歌特有の評価軸として掘り下げると面白いのではないかと思う。私に深耕する力量がないのが残念だが、その理由を一点だけ挙げれば、この「何言ってる感」の面白さは、短歌よりは回文寄り、つまり回文の評価軸に由来する評価軸であると推測する。「何言ってる感」は、使った言葉と、その反対側に出てくる言葉との組み合わせの妙があってはじめて出てくる、あるいは、許されるものだからだ。そのこと自体は短歌の形式をとらない回文でも同じで、ここに回文と短歌の評価軸の論理積(の一つ)があるような気がしている。

「何言ってる感」とは違うかもしれないが、コミカルな面白さのある罅ワレさんの回文を挙げる。(ほかにもたくさんある。)

きれいなものを見せる回文短歌

物語じゃなくても、きれいな景、あるいはモノを見せるだけでもいい。

牡蠣の殻んなか切るメスにこそ美の忍びそこに住める幾何なんらかの幾何
(かきのからんなかきるめすにこそびのしのびそこにすめるきかなんらかのきか)
/罅ワレ

パッと見で回文であることがわからない、という点をクリアしたうえで、そこに物語があるわけではないが、貝殻の幾何についての読み手の認識、印象を、意識下から浮かび上がらせる。これは浅井さんの名作

遠く陽を見ながら時空閉ざすキス ザトウクジラが波をひく音
(とおくひをみながらじくうとざすきすざとうくじらがなみをひくおと)
/浅井(注:座談会中の作品ではありません)

の評価とも通じるものがあると思う。

…まだあるような気もするが、とりあえず上で挙げた評価項目
「物語が見える」
「コミカルになる」
「きれいなものを見せる」
のうち、「物語が見える」「きれいなものを見せる」は短歌寄りの、「コミカルになる」は回文寄りの評価項目だと思う。しかし、「物語が見える」「きれいなものを見せる」回文もあるだろうし、「コミカルになる」短歌もあるから、あくまで短歌「寄り」、回文「寄り」である。

そして、座談会内でえんどうさんがよく指摘した、漢字が連続しないように、とか、読点を、とか、具体を、という技術は短歌寄りの工夫であるし、また、罅ワレさんや有櫛さんが述べた「端から作る姿勢」は回文寄りの工夫であろう。

作り手としての評価

違う観点からの話をする。座談会の中で、有櫛さんは

回文作らない人が◎つけるのはいいですよ。でも実作者がこれを一番にしちゃいかんのじゃないかという気がします。

と述べ、ひざさんも評の際に「作り手の目線が入るんですけど」ということを述べている。つまり、回文短歌では「作り手としての鑑賞」という独特の評価軸が存在する。読者が容易に作者にもなりうる普通の短歌では、あまりこういう見方、評はしないのではないか。これは回文寄り…というよりはもう100%回文制作の立場からの評価軸だろう。

座談会中では、たびたび「テンプレ」(よく見られる逆さ言葉の組み合わせ…例えば「好き」と「キス」、「庭」と「ワニ」)が評価を下げるポイントとして挙げられていたが、これも「作り手として鑑賞」したときに出てくる話だと思われる。実のところ、私自身は十二作品を読んだ際に「テンプレ」に悪い印象はそんなに持たなかったのだが、それは(短歌に限らない)回文の制作数がそこまで多くないからかもしれない。

一方で、例えば高評価を受ける浅井さんの作品「遠く陽を~」であっても、「音」と「遠」はテンプレであろうから、テンプレが必ず低評価となるかというと、そうでもないのだろう。

結局、三十一字という庭に、池や庭石、植栽をいかに対称に置くかということがポイントなのだ。そして、ひざさんが述べたように、「ザトウクジラ」の中に「時空」が在ることの発見。あるいは「ねこねここねここねこね」を「猫(猫?)子猫(子猫?)寝」で捕まえること。座談会中に、偶然という言葉が何度か出てくるが、ザトウクジラが時空を含んでいるのは必然…つまり、何回ひっくり返そうが確実にザトウクジラは時空を含む…のだから、回文短歌は、その必然の発見と捕捉の詩形なのだとつくづく思う。ザトウクジラの中の時空、猫子猫、すき焼きを捕まえて短歌の詩形に仕上げるのは、高難度の捕り物である。

…評価軸の話は、今のところ私の能力では以上が限界である。座談会にはほかにも観点が出てくるので、ここまでこの長ったらしい文章を読まれた方が、ぜひもっとスマートにまとめ上げてくださることを期待しないで期待する。

このあとはもう少し力を抜いて書いた感想です。

いちごつみ回文短歌は難しくない

回文+短歌という制約に加えて「いちごつみ」「摘んだ一語について、前の作品と同じ回し方をしてはいけない」という制約を、したり顔で課したわけである。不遜な態度であったが、しかし、この制約がキツかった…という話が座談会中ほとんどなかったので、そんなに難しくないのであろう。かく言う私自身も、(作品の出来はともかく)そこまで難儀ではなかったように思う。罅ワレさんの話では、三十一字という量は、ある程度自由度を許しているのではないかということだった。

というわけで、ここをお読みの方はぜひチャレンジしてください。私でよければぜひお相手を。

言葉遊びでなく、技巧としての回文

有櫛さんが座談会の最後のところで

枷のある、枷の多い回文じゃなくて、回文が技巧に入っている短歌なんですよね。

と述べられていて、これはぜひ深めていただきたいと思った。短歌・川柳の入門書の中に、ごくまれに回文に触れられていることがあるが、だいたいの書きぶりは「単なる言葉遊び」「やるのは勝手だがかまけないように」というようもので、ちょっと残念に思う。

また、浅井さんも座談会の終わりに

回文短歌には、技術が詩を生む面白さがあります。

と表明していて、注目すべき着眼だと思った。このあたり、もう少し何かあるような気がするのである。そのことを主張できればと思ってこの編集後記をいかついものにしたが、力及ばずである。

最後に

力及ばずである…なんて書いて終わると意気消沈しているようですが、そんなことは全くなく、とても充実した時間でした。特に、私は実際の歌会に一度も出たことがないので、歌会(座談会)を目の当たりにできたことも大きな収穫です。

ふつうの短歌のいちごつみでお付き合いいただき、そこで出た着想を素早く実行に移してくださったえんどうさん。

企画を固めてオーガナイズくださり、座談会座長も務めてくださった罅ワレさん。

作者としてだけでなく論客として大いに、率直に、愛のある評をくださった有櫛さん・ひざさん。

日ごろ回文短歌しかツイートしないところ、普通の言葉をお聞かせくださり、台風の被害でお忙しいところ盛りだくさんのコメントをくださった浅井さん。

アシスタントとして短歌の切り盛り・提示、票・評の取りまとめをしてくださった髙木一由(かっちゃん)さん。

そして、座談会をお読みくださった方々。

…スタッフロールみたいな感じになっていますが、大いに感謝申し上げます。ありがとうございました。

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