自分はあたまがおかしいかもしれない
小野ほりでいさんの炎上マーケティングしたときに起こることをよみました。
結論から言うと、自分は頭がオカシイかもしれない。
外的自己について考える
この記事を読んでみて、あぁ自分は内的自己と外的自己の分離がとても進んでいるな、と感じました。
外的自己は何らかの規範に従う自分、内的自己は自己に意思を持った自分という解釈ができます。
外的自己が何かしらの規範に従って行動しているときは、自分の意志に反していようが、規範に従うのは当然とばかりに行動をしてしまいます。
最初は外的自己が5割で、内的自己が5割の自分がいるとしても、「自分はそうするしか無いんだ、規範に従うべきだし」と考えることで、自分の意思で行動することの責任から逃れようとしてしまいます。
責任から逃れることでストレスや重圧からの開放をしているのです。
このストレスや重圧からの開放というのが甘い蜜であり、中毒性のある行為だと感じました。
この開放を重ねていくと、より、開放されようとするために外的自己の割合が高くなってしまい、ついには内的自己が押しつぶされていまいます。
小野ほりでいさんの記事では、
周りから見ると、「この人はどんどんおかしくなっている」とはっきり分かるのに、本人は何がおかしくなっているのかわからないのです。
とありますが、自分の場合は違うと思っています。
自分は俯瞰的に自分を見ている(と思っている)、人間的ではないなと自覚しつつも外的自己が多く締めている現状を受け入れているのです。
やはり、この現状を受け入れる理由としては責任や重圧からの開放ということもありますが、もう一点「規範に従うと悪者になりにくい」ということがあげられます。
規範には色々あるとは思いますが、法律、憲法、民法、就業規則、口約束......。どれをとっても、規範に従う人には悪いとは言いにくと思います。
自分がよく見るのは、あおり運転には煽られる方にも原因があるんだという意見です。
確かに、すべてのあおり運転が、煽った側に100%非があるとは言いませんが、規範に従ったことを言うと、あおり運転は「3年以下の懲役又は50万円以下の罰金」が科せられます。
これは明らかに規範に反しています。
内的自己が高い人は、煽られる方もなにかしたのだろうと、言うかもしれません。
様々な例はありますが、規範に従っていさえすれば、悪者になりにくいというのはわかってもらえると思います。
それで自分はどうなりたいの
個人的な考えでは、外的自己の割合が高ければ、高いほど、悪者になりににく、責任から開放されると思っています。
ですが、そういった特徴がある反面、人間的な感情や意思は薄くなっていきます。
人間らしさを失うのはとても悲しいことです。なので、短所はと聞かれると必ず、喜怒哀楽が無いことですと答えます。
じゃあ、どんな人間になりたいか?
そんなものは特にありません。それは六法全書に書いてありますか?
書いていなければ、私の答えは「無」です。
それが私の生き方だから。