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ジャーナリズムがアクティビズムにならねば、信頼は得られない。

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000002642

いじめ報道に思う。
中村 厚一郎
2006-10-25 11:04

小学六年生のいじめを苦にした自殺。先生のいじめをきっかけにした中学生の自殺。こどもたちは遺書を残していたため、それがテレビに映し出され、センセーションを盛り上げる。被害者は自殺したこどもであり、その保護者。加害者は学校を管理する先生であり、クラスメートであると、テレビジャーナリズムは糾弾する。

きっこの日記の黒幕と噂されるテレビコメンテーター氏も声を荒らげて、教育関係者を糾弾していたが、彼が一時の感情でテレビの視聴者たちを煽ることに何の意味があるのだろうか。
扇情的なコメントに続いて理性的な論説があり、具体策があり、それを関係者たちに提示し、改善を促さないならば、テレビ者たちの言説はガス抜き効果に寄与するだけ。つまり、社会が動いていかぬための効果を果たす。
ならば、これも社会悪のひとつだ。

確かに、最後の引き金を引いたのは、自殺当時に関わっていた教員たちだろう。だが、自殺に導くようなか弱い精神を育んでしまったのは、小学校低学年の学校教育であり、幼少時の家庭教育であることを否定することはできまい。
かつて、朝まで生テレビで、教育問題を扱ったときに、参加者全員が納得した言説は、こどもたちが万能感(自分が一番という気持ち。犬の飼育でいえばアルファ感。)が壊されていないこと。つまり、いまの教育は、こどもたちにまっとうな挫折を与えることができない。そのことを教育関係者のすべてが合点した。

教育の現場では、小学教員と中学教員の相互不信は高いという。
小学校では個性を伸ばすなどと言って野放しにし、中学校では高校受験に向けて勉強で縛りをつける。
小学校の教員は、中学校の教育を締め付けと批判し、中学校の教員は、小学校の教育を無責任と批判する。
そういうことが起きている。
どちらが正しいというのではなく、どちらも正しいのだろう。そして、それぞれの個性に合った教育の目標を立て努力させる。自らを律することのできる精神を育む。それが教育に求められるものであることは疑問の余地がないはずだ。

こどもたちの自殺が起きてしまったのならば、自らを律する精神を育むことができなかったことを、教育関係者は問題視すべきであって、保護者からの批判への対策を講じることで、問題をすりかえてはならぬ。
その意味では、テレビ者たちの糾弾は、根本的な問題に眼を向けることを妨害している。
だから、テレビ者たちの学校批判は社会悪であるといえるのだ。

あるべきは、噛ませ犬的な糾弾コメントのあとに、冷静な分析のコメントがあり、解決策の提示がある。それがテレビのフェイズであり、それを受けて、さまざまな組織・団体から行政への働きかけがなされる。そして、現場の人たちが具体的な改善策を行えることだ。

世論や政治が表面的な批判にリソースを奪われてしまって、現場に責任が押し付けられる。それは、自衛隊ばかりではなく、教育の現場にもいえるのだと思う。

オーマイニュース(日本版)より

スポンタ氏もお元気なようでなによりです。20年どころかもっと前の手法が今も通じますよ。昔取った杵柄というのもまんざらではないです。その節は大変お世話になりました。ではまた。