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「インターネット討議的理性」の行方

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003102

反オーマイニュースとはなにか
O羽 S史
2006-11-13 14:04

「カウンターの美女の前に長く滞在するのは良識のうちに数えられない。適当に通過することが要求される。中に入れば自由な空間である。壁にはいろいろな知らせや広告が貼ってある。奇跡的特効薬、巡回医の診察時間、紛失物や拾得物のお知らせ、特別な出来事や投機への勧誘等々。部屋の真ん中に長いテーブルが置かれ、その上にパンフレットと新聞が置いてある。長椅子に座ってそれを読むもよし、そこここに群れ集まる人々の話に関心があれば、それを聞くのもよし、言いたいことがあれば発言すればよい。ピューリタン革命の最中、うかつに口を開けない思いをした人々は、コーヒー・ハウスに新たな時代の息吹を感じたであろう。しかもそこでの討論は公衆浴場や協会や劇場でのおしゃべりとは違って、公的意見、世論としての力を有するに至っているのである。
(略)
 しかし、コーヒー・ハウスが自由気儘な空間であるとはいっても、一つ重要な規制があり、それが前近代的な庶民かある能力を搾り取るように引きだし、近代市民を形作るのに大きな力を発揮した。会話能力である。コーヒー・ハウスではさまざまな人々が集まって話をするといっても、十七世紀のロンドン市民がすべて、いかに会話すべきかを心得ていたわけではない。家で夫婦喧嘩でもやらかす具合に喋り散らされた「公共の議論」など犬も喰わない。「規則と礼法」は、コーヒー・ハウスの中で避けるべき不謹慎な行いを数え上げている。(略)」
(臼井隆一郎「コーヒーが廻り世界史が廻る」)

 十七世紀のコーヒー・ハウスの描写である。哲学者のユルゲン・ハーバーマスが「公共性」というとき、考慮にあるのはまさしくこのようなコーヒー・ハウスにおける議論であるのだ。

 オーマイニュースが規約を改定してオピニオン会員(「この記事にひと言」欄に書き込みだけをする会員)を廃止することについて議論がわき上がっている。「ひと言」欄に誹謗中傷が相次ぎ、市民記者から苦情が相次いだことに起因する。
 ぼくは、特に政治関係では、「ひと言」欄に目は通してもほとんど考慮に入れないので、「ひと言」欄がどうであるとか特に興味がない。印象残っていることといえば、ぼくがある団体の構成員であるとか、事実無根なことを言いふらされたことぐらいなものである。それと「ひと言」欄とは違うが、オーマイニュース編集部にメールで寄せていただいた意見(http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000002721)で「音羽氏、摂津氏に対する中傷はうんざりです」といっていただいたのも印象に残っている。それは気を使っていただいて、申し訳ない気がした。

しかしまあ、市民記者からも
「今までの全記事の「ひと言」欄を見直してみたが、確かに記者本人をたたく「ひと言」も一部ある。だが、そのほんの一部を除いた他の多くの「ひと言」は、記事の書き方や取材不足を指摘する、まともな助言に思える。それを、前述のような受け止め方は、いかがなものか。」(http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003038)というような意見もでてるので、すこしそれについて考えてみたい。

 問題は「議論」である。「まともな助言」によって前に進んでいく議論となるのか、つまりはたして、コーヒー・ハウスのような「公共性」が「ひと言」欄でも通用するかということにある。

 まず第一にネットの議論では「規則と礼法」がまず成立しないという点はあるだろう。例えば、古くはパソコン通信の掲示板の時代から、ネットワークにおける「議論」においてはさまざまな規則が課せられていたわけであるが、これを参加者が確実に守るという担保は存在しないわけである。
 コーヒー・ハウスならば誰が言ったか、誰をつまみ出さなければならないか、一目瞭然であるが、インターネットではそうもいかない。だから、インターネットで「上品な」議論をしようとする場合、発言者を管理して、規則の違反者を排除するような構造を必然的に抱え込まなければいけないわけである。
 つまらない結論ではあるが、十年以上もたってそれがインターネット・スタディーズの最も有力な結論であるという現状では、それ以外の答えの存在を疑うのに十分であると思う。

 第二にぼくには、発言者が二人いるとして、双方の意見を折衷して、より良い意見となるような、必ず前に進むような議論というもの自体を疑ってしまうことだ。「まともな助言」という言葉は、そんなふうな議論のモデルを想定している。
 ある本の文章の一部を引用するとき、その文章はその本の文脈から離れて、違う文脈を抱え込むことになるわけである。例えば、冒頭の文章においても本の文脈からは離れて、議論のモデルとしてインターネット上の議論との比較という文脈を抱え込むことになる。
 コーヒー・ハウスにおいては、例えば新聞の記事について語る場合でも、お互いの話の文脈を同じにすりよせることは可能である。コーヒー豆の価格の高騰について、政府の輸入政策の是非という文脈を共有できる。
 しかし、インターネットではどうか。文章の引用は繰り返され、文章へのリンクは多重に張られる。すっかり、我々にはその文章のもとの文脈など分からなくなってしまっている。我々は、もとの文脈など気にすることなどなくなっている。文脈は引用した自分でつけるものだと、思ってしまっている。だから、我々はなにか文章を前提として物を言おうとするとき、もはや文脈を共有できない。
 「まともな助言」というのは、双方の文脈が同じ土台にあってこそ成立するものである。ブログではどうだとか、2ちゃんねるではどうだとか言われても、ぼくにはその文脈は共有できない。
 2ちゃんねるなどを見ると、「まともな」議論など起こるはずがないというのがよく分かる気がする。ある文脈にのった「議論」があって、それを前に進めようとする力は弱い。ある文章があって、それに対して文脈を喪失した匿名のざわめきが無数にある。ぼくはそれにすっかり倦怠を覚えるが、良くも悪くもエネルギッシュなのは分かる気がする。けど、決してそれは「まともな」議論を、意味をもたらすかというとそうではないだろう。『喋り散らされた「公共の議論」など犬も喰わない』のである。

 オピニオン会員の廃止に対する反発で、ぼくが面白いと思った意見は「こうなれば我々で創刊宣言の精神に則った真のオーマイニュースを作るしかない」というものである。
 そんなオーマイニュースの影であるような「反オーマイニュース」ができるものなら、ぼくも是非見てみたい。はたして、匿名のざわめきからどの程度意味を成せるか、「まともな」議論ができるか。
 それこそ、自分たちの「言いたいこと」だけを主張したいような、馴れ合いメディアになってしまいそうであるが、そうでないというならばまさしく、つまらない結論を覆す次世代とメディアとなれるだろう。
 匿名のざわめきから発せられる「反オーマイニュース」とは何であるか。コーヒー・ハウスのパラダイムに立ったままでその新しいパラダイムを期待したい。

オーマイニュース(日本版)より

長々と書いていますが簡潔に要約すると「オーマイニュースを追い出されたオピニオン会員が同じようなニュースサイトを作れるものなら作ってみろ、ハハw」ってことでしょ? 最低限、編集部の中の人が言うなら煽り文句として成立しますが、トニオくんはただの市民記者じゃないの?

同じ背景(知識やら何やら)を持つ物同士でないとまともな議論が成立しないというのは同意します。ただそれも最初に議論を提起する人がある程度詳細に前提条件などを書けば(真面目に話をしようとする者であれば)自分で補完するでしょ? そのくらいの信用は相手においていいんじゃないかな。

茶々入れも煽りもインターネットの花のうちだと受け入れる覚悟は必要かもね。そうでないなら精神衛生的な面から考えると最初からネットに書き込まないようにしたほうがよいです。病むよ?