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「博多、海がはぐくんだ自治都市」

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003033

聖福寺・仏殿でシンポジウム
T島 T朗
2006-11-15 07:47

 11月10日、午後2時30分~4時30分、福岡市博多区御供所町(ごくしょまち)の聖福寺(しょうふくじ)仏殿で標記のシンポジウムが開催された。主催は福岡市博多区役所、西日本新聞博多まちなか支局。後援は(財)福岡アジア都市研究所。仏殿を特別開放し、100名限定で参加希望者を事前に募集した。記者も100名のひとりとして参加した。

 聖福寺境内は史跡に指定されており、シンポジウム会場の仏殿内での写真撮影は禁じられており、写すことはできなかった。聖福寺は、栄西(ようさい)禅師が開いた日本最古の禅寺である。

 この企画は、盛んな海外交流を背景に中世から栄えてきた博多部(はかたぶ)の今後を考える地域キャンペーン「博多未来フォーラム~歴史と文化のまちづくり」のスタートの企画である。

 パネリストは、細川白峰(ほそかわびゃくほう)老大師・聖福寺住職、森恍次郎(もりこうじろう)氏((株)五十二万石如水庵社長)、橒木武(ちしゃきたけし)氏((財)福岡アジア都市研究所理事長)、日比野克彦氏(アーティスト)、山田桂一郎氏(JTIC.SWISS代表)。コーディネーターは大久保昭彦氏西日本新聞社博多まちなか支局長。

 パネリストの発言で、印象に残ったものをいくつか紹介する。

 細川氏:(寺の由来に関して)1195年源頼朝より土地をもらう(1000平方メートル)。太閤の町割りで4分の1に縮小された。栄西が寺を開いた当時、博多部はチャイナタウンであった。貿易関係の商人が住み、日本人はあまり住んでいなかった。博多部は保守的な町で、ピラミッドのような縦社会である。最近の人口は横ばいというが、新住民はマンション住まいの人々だ。このままでは山笠もどんたくもなくなるだろう。現在観光に訪れる外国人はヨーロッパ人が1位、次いで中国人、韓国人である。

 森氏:天正15年(1587)、秀吉が箱崎浜で茶会を開き、そのとき松風という和菓子を献上した。栄松堂という屋号だったが、寺社へのお供物を専門にこしらえていた。博多部の人々は、鎖国がおこなわれるまでは、玄界灘を向いて生活していた。文化的にみて、中国、韓国は親であり兄、姉であった。博多は中国からの第一上陸地点であった。長崎の出島をこしらえたのも博多商人である。

 山田氏:印象としては、観光もこのままではだめだ。地域をいかに育てるかが大事で、個性がはっきりしないと面白くない。外国人がなぜ京都に行くのか。京都の写真は、町屋、芸妓、つまり人と生活が出てくるからだ。博多っ子を育てないといけない。

 日比野氏:人と人をつなぐことが大事だ。自分はその道具として物を作っている。太宰府では、遣唐使船をみんなでこしらえた。その作業の中で人の交わりが進み、人の流れが形成されると考えている。

 興味尽きない話で、予定された2時間は短く感じられた。博多部とはどこのことか、歴史はどうなっているのかを改めてとらえ直す良い企画であった。

オーマイニュース(日本版)より

この記事についたコメントは2件。

2 とくさん 11/16 14:24
baru(sayuri)様
お読みくださりありがとうございます。
シンポジウムでも、博多の人は「ラテン」系の気質だという冗談めいた話も出ました。
「九条の会」がんばります。
LivedoorのPJニュースにも福岡の記事を掲載しています。ご笑覧ください。

1 bari 11/16 14:04
博多に住んだことがあります。
記者様の記事を読むたびに、懐かしく思い出していました。
食べ物は美味しいし、住んだ2年の間博多の人にとても親切にしてもらいました。
博多っ子は、はっきりものを言って、そして目立ちたがり屋で楽しい人ばかりでした。
お元気で。
九条の会も頑張ってくださいね。


福岡市くらいの大都市になれば地元民の愛称「~っ子」(ex.博多っ子)みたいな意識は薄れてくるものだと思いますが、大橋あたりは博多っ子だという人はわりと多かった印象です。肌感覚だと粕屋とか野芥とかあたりも博多っ子って感覚の人多いんじゃないかと思います。今はどうなってるのかはわかりませんが。

こういうお祭りが開催できるうちは大丈夫でしょう。うちの地域も地元の夏祭りを先日無事に終わらせることができました。子供がいないとこういうイベントごとは成り立たないよねぇ。