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【映画】山田洋次監督、時代劇3部作の魅力

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003255

淡々と描くサムライの喜怒哀楽
T田 S作
2006-11-22 08:00

 2006年FIFAワールドカップにおける日本代表チームのチャッチフレーズは「サムライ・ブルー2006」だった。そう言えば、マリナーズでイチロー選手が活躍し始めたとき、イチロー選手が構えるバットを日本刀に見立てたイラストを見た記憶がある。

 「サムライ」――これは日本人にも外国人にも、日本や日本人についてイメージする際に頻繁(ひんぱん)に用いられる言葉である。しかし、この「サムライ」という言葉が何をさしているのかは、使っている人々にも実は曖昧(あいまい)なものではないだろうか。

  今のことは寡聞にしてよく知らないが、10年くらい前なら各テレビ局が競って「時代劇」というジャンルのドラマを放送していた。そして、その中の「サムライ」は超人的な剣術の力量で悪人を次々と斬り捨てる正義の味方であった。また、テレビが普及する前には黒澤明監督の『七人の侍』『用心棒』などの映画が有名だろう。欧米における「サムライ」のイメージは、黒澤明の映画によって決定されたのかもしれない。

 ともあれ、私たちが持つ「サムライ」のイメージには必然的に「刀」と、「刀」に象徴される圧倒的な「力強さ」がともなっているようだ。もちろんこの「力強さ」は、私たちのイメージの中では「精神的高貴さ」とともに存在し、もっぱら勧善懲悪のために用いられる。私たちが海外で活躍する日本人に「サムライ」のイメージを重ね合わせるのは、このような「精神的高貴さ」と「力強さ」(それも、筋力ではなく技術的な力量による)を併せ持つ理想的人間として、彼らを見つめたいからなのだろう。

 しかし、私たちが無意識に肯定的なイメージとして用いる「サムライ」を、決して快く思わない人々もいる。第2次世界大戦で日本の侵略・占領を受けた国々の人々である。彼らにとっては「サムライ」=「刀」=「日本の侵略軍」であり、私たちが無邪気に示す「サムライ」のイメージを、逆に不気味なものと考えているかもしれない。

【画像省略】
『たそがれ清兵衛』
監督/山田洋次(2002年)写真提供/松竹㈱

 彼らにとっての「サムライ」は、「刀」に象徴される圧倒的な武力で略奪や強姦を欲しいままにする極悪人であろう。知人の中国人に聞いたのだが、日本について特に関心のない中国人の多くは、「日本の江戸時代は、圧倒的武力を背景にした「サムライ」による恐怖政治の時代だ」と考えてるとのことである。

 もちろん、彼らが受けた侵略や占領の記憶を考えれば、彼らが「日本軍」=「サムライ」=「極悪人」という発想をするのも仕方がないかもしれない。また、日本国内でも軍隊教育で一般市民を大日本帝国軍人に改造する際に、「サムライ」の倫理綱領を表現する「武士道」なるものを、本来のそれから極めて歪んだ形で兵士たちに注入したことも忘れてはならない。

 要するに、今の時代を生きる多くの人々が持つ「サムライ」のイメージは、実際の歴史の中で生きてきた「侍」からかけ離れたものであることは確かなようだ。

【画像省略】
『隠し剣 鬼の爪』
監督/山田洋次(2004年)写真提供/松竹㈱

 山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』と『隠し剣鬼の爪』は、そのような従来の「サムライ」のイメージを払拭してくれる作品である。もちろん、両作品とも藤沢周平の小説を原作とした、フィクションであることは言うまでもない。しかし、侍を含めた江戸時代の人々がどのようなことに喜怒哀楽を感じ、どのような生活をしていたのかを淡々と描き出している。

 両作品ともクライマックスで真剣での勝負の場面があるが、むしろ印象に残るのは「侍」たちの普段の生活の描写である。支配層に属するといっても家計の足しにするために農作業や内職に勤しみ、家族や友人たちを大切にし、その一方で学問や剣術の修行にも精を出す彼らの普段の生活が丁寧に描写されている。

【画像省略】
(C)2006「武士の一分」製作委員会
12月1日(金)<映画の日>全国ロードショー

 そして、クライマックスの真剣勝負の場面にしても、彼らが死をかけた戦いに挑む前にどのような葛藤を乗り越えるのかも描かれている。その葛藤を乗り越えて潔く戦いの場へ挑んでいける背景には、彼らの普段の生活の中にある精神的修養があることが自然と理解できる。

 『たそがれ清兵衛』はアカデミー賞外国語作品賞にノミネートされたことでも注目されたが、この両作品は欧米の人々はもちろんだが、むしろ多くのアジアの人々に見てもらいたい作品である。もちろん、これらの作品に描かれる「サムライ」もフィクションに過ぎないのだが、「超人的剣の達人」や「殺人鬼」といった従来の「サムライ」より、実際の「侍」により近いものであることは間違いないと思う。

【画像省略】
(C)2006「武士の一分」製作委員会
12月1日(金)<映画の日>全国ロードショー

 12月1日から山田洋次監督の最新作『武士の一分』が全国ロードショーされる。上記の2作品をともにこの作品も含めて、これらを通してより多くの人の「サムライ」そして日本のイメージが変わることを願って止まない。 

オーマイニュース(日本版)より

※引用文中【画像省略】は筆者が附記


この記事についたコメントは2件。

2 豊孝 11/23 09:45
この三部作のうち、前の2本は見ています。『たそがれ清兵衛』のほうがプロット、役者とも圧倒的によかったです。

黒澤明の映画が、「サムライ」の持つ力および高貴さのイメージを外国に広めた、というのはあったと思います。当時、今井正や小林正樹などが武士道の封建的な部分を批判した映画を作っていたんですが、黒澤の影響力の方がずっと強かったと思われます。

山田監督の三部作および藤沢周平の小説は下級武士を主人公としており、必然的に、サムライの持つ力のイメージではなく、農工商階級にも通じる喜怒哀楽を丁寧に描いていて(『武士の一分』はまだ未見だが)、その人間性描写に魅力があります。

どちらのイメージが実際のサムライに近かったのか。おそらく、両方の面があったんでしょう(と言ってしまえば、あたりまえということになりますが)。山田洋次や藤沢周平は元々、声高に何かを主張するほうではないですが、武士階級の頂点に位置する人々、あるいはその先の封建制への批判を心中に、これらの作品を創っていることは明らかだと思います。

私自身、武士道やサムライに対しては良いイメージを持っていません。日本人の精神的な規範としてオリジナリティのあるものは武士道しかない、というような話しを聞くと、いやな気分がします。どうしても、戦争中の特攻や、一億層玉砕、集団自決などを思い浮かべます。日本人には、「一所懸命にやって駄目だったら死ねばいい」という考え方が牢固としてあり、これが戦争中の極端な行為につながっています。今でも高校野球のがむしゃらぶりや、甲子園での軍隊式行進を見ると、どこか関係があると思ってしまいます。武士道と、天皇制、そして民主主義 ―― これらの調和が日本の大きな課題と言えば言えるのかもしれません。

1 Mint 11/22 09:05
基本的に「新渡戸稲造の武士道を嫁」としか言えませんね。
黒澤の映画が世界にサムライを広めたですかぁ(笑い)。


「武士道」を出すなら『葉隠』の話を出さないと卑怯です。あと海外での日本のイメージはその国の人が受けた教育やふれた「日本に関する情報」から形作られていると思いますよ。「日本は絶対悪」という教育を受ければそう思い込んでもしかたありません。


『たそがれ清兵衛』は観ました。面白かったのは間違いないのですが、なんだかはかない感じの作品だった印象ばかり残ります。他2作品はWOWOWでやってたら見ようと思います。