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駆け足でも回りたい沖縄戦跡

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003015

旧海軍指令部壕~ひめゆりの塔~摩文仁
A木S一郎
2006-11-16 12:10

【画像省略】
撮影者:OhmyNews

 ヒートアップする県知事選で注目を集めている沖縄だが、この南の島では沖縄戦が通奏低音のように流れている。耳を澄まして“聞いて”みることが沖縄を理解する第一歩である。

 沖縄本島南部の旧海軍司令部壕とひめゆりの塔、摩文仁の丘を駆け足で見て回った。多数の民間人を巻き込んだ戦争の痕跡は、かつて見た以上に鮮烈で衝撃的だった。美しい海と輝く太陽を満喫する「ついで」であっても構わない。若い人たちはぜひその目で直接見て、語り継いでいってほしい。以下は、現地資料やパンフレットなども参考にしつつ綴った「沖縄戦跡ガイド」である。

【旧海軍司令部壕】
 那覇市南部に隣接する豊見城(とみぐすく)市は、人口5万4000ほどの小さな市である。ここに旧海軍司令部壕がある。現在は公園として整備され、緑美しい丘となっているが、沖縄戦当時は海軍沖縄方面根拠地隊の大田実司令官以下4000人が、この壕で壮烈な最期を遂げた。

 入り口から狭いトンネルを降りた地下35メートルの場所に、全長約450メートルの壕があり、このうち275メートルが現在公開されている(写真下)。

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撮影者:A木S一郎


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撮影者:A木S一郎

 作戦室、幕僚室、暗号室や下士官室……。明るく照らし出されてはいるが、はっきり言って「不気味」と呼ぶほかはない雰囲気だ。特に幕僚室は、自決によるとされる手榴弾の跡が今も生々しく残されており、当時の凄惨な状況を伝えている(写真右)。

 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
 沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 沖縄戦末期の1945年6月6日、大田司令官が、ここから海軍次官宛に打った電文の末尾である。

 大田司令官は打電した理由について同電文の冒頭で、県や守備隊司令部が通信手段を失ったため「知事に代わって緊急に通知した」と、切迫した状況を説明した。その上で、陸海軍が県民を省みず戦争を行っていたにもかかわらず、県民のうち戦えるものは自ら招集に応じ、残された老人や女性、子供は軍の邪魔にならないよう狭い防空壕等に避難して窮乏生活に耐えている、と賞賛した。

 「ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、(中略)沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている」

 そして、前述した末文へと続くのだ。現代文にしてあらためて記す。

 食料は6月一杯しかもたない状況であるという。
 沖縄県民はこのように戦った。
 県民に対し、後世で特別の配慮を賜りたい。

 人によって解釈は異なるだろうが、この文章は極限状況に置かれた大田司令官が「県民は十分に戦った」「これ以上の戦闘は不可能」と、当時許される精一杯の表現で、訴えかけたものだったのではないだろうか。

 大田司令官は打電後の6月13日ごろ壕内で自決、海軍司令部は全滅する。しかし、沖縄戦はさらに継続し、より激しくなってゆく。

 ×  ×  ×

 太平洋戦争が劣勢となっていた1944年2月、日本軍部は沖縄守備軍(第32軍)の編成に着手した。そして、7月のサイパン島玉砕という事態を受け、ようやく沖縄の兵力増強を開始する。第9師団以下3つの師団を投入し、砲兵隊司令部も編入された。米軍上陸の際、砲兵部隊に支援された3個師団が、上陸してくる米軍を叩くという作戦である。

 しかし、台湾からレイテに援軍が派遣されたため、この穴埋めとして沖縄の第9師団が12月に転戦し、兵力の3分の1は戦う前に削減された。増援はなく、水際を叩く積極作戦から、早くも持久戦への転換を余儀なくされるのである。

 4月1日、抵抗もなく易々と本島上陸を開始した米軍の総数は、後方支援も含め54万8000人、対する沖縄守備隊は学徒らも含め11万6000人だった。近代兵器に身を固めた5倍の米軍と貧弱な装備の日本軍では、戦う前から勝敗が決していたといってよい。

 自軍の劣勢を熟知していた第32軍の牛島満司令官は、沖縄南部に多く見られる「ガマ」と呼ばれる自然洞窟を抗戦の拠点として選んだ。このことが同地に避難していた民間人をさらに巻き込み、あまたの悲劇を生むことになる。

 日本側の死者・行方不明者は少なく見積もっても19万人で、うち9万人余が民間人だったとされている。

 ×  ×  ×

【ひめゆりの塔】
 話は少し戻るが、米軍上陸が間近に迫っていた3月23日深夜、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人に動員がかけられ、教師18人とともに那覇市東南5キロの南風原(はえばる)にある「沖縄陸軍病院」に向かった。世に「ひめゆり部隊」と言われる学徒の悲劇の始まりである。

 15歳から19歳の女子生徒たちは、戦闘要員ではなく、看護士ですらなかった。看護実習を3カ月程度受けだけで、多くは前線と離れた「赤十字」のような安全な場所で看護の手伝いをするともの思っていたから、学業道具も持参していた。そして、すぐに友軍が勝利するものと教え込まれていたのである。

 ところが、配属された「沖縄陸軍病院」は、病院というのもお粗末な壕(ごう)だった。米軍上陸とともに、すぐにこの壕もけが人で一杯となり、こうしたけが人とともに、女子生徒らも糸数、一日橋、識名などの壕に分散配置されてゆく。

 生徒たちは暗い壕の中で、過労や食糧不足、シラミなどに悩まされながらも、昼夜の別なく働いた。戦線の悪化にともない、患者の数は増える一方だ。腕や足を飛ばされ、肉を抉(えぐ)り取られた悲惨な患者のうめき声。血や膿や傷口を這う蛆虫、排泄物の臭い。脳症に犯され、生徒たちを怒鳴り飛ばす兵士もいた。

 こんな中、麻酔なしの恐ろしい外科手術にも立ち合わされ、腕や足を、あるいは重い遺体を砲弾飛び交う壕の外に運び出し、処理させられていたという。蚊やアブの害すらろくろく受けたことのない現代人からは、想像すらできない地獄図である。

 5月25日、第32軍司令部のある首里を支えきれなくなった守備隊は、沖縄本島南部への撤退を決定した。壕の中で歩けない重傷患者には青酸カリ入りのミルクが配られた。生徒たちは歩ける患者を連れ、担架で運び、這いずり回る兵士や遺体が転がる中、南部へと撤退させられたのである。この時点で、沖縄守備隊の80%が壊滅していた、というのにである。

【画像省略】
撮影者:A木S一郎

 南部では山城、伊原、糸洲、波平にあった6カ所の壕が生徒を待ち受けていた。その1つ、伊原第三外科壕の前に立つのが「ひめゆりの塔」である。

 ひめゆりの塔の前には、ぽっかりと大きな穴が開いている。これが伊原第三外科壕の入り口だ(図)。垂直に落ちる開口部、ごつごつとした岩肌。出入りするのはおろか、中で休息する場所を見つけることすら難しかったのではなかろうか。

 しかも、既に薬も包帯も、医療道具すらないに等しかったこの“病院”の中に100人以上もの人間が一時、難を逃れていたのだ。間断なく砲弾が飛び交う中、それでも生徒たちはこの劣悪な状況の中で、伝令や水汲み、食料探し、看護にと、かいがいしく働いたのである。

 そして、運命の6月18日がやってきた。軍司令部は各壕に「学徒は各自解散し、自らの判断で行動せよ」と「解散命令」を言い渡した。勝利を信じ、懸命に耐えてきた彼女たちの動揺と悲しみ、憤りは、想像を絶するものがあっただろう。多くは「見捨てられた」と思ったことだろう。南進してくる米軍の攻撃と、海岸線からの艦砲射撃に挟まれ、既に逃げる場所などなくなっていたのだ。

 この「解散命令」までのひめゆり学徒の犠牲者は19人だったのに対し、解散命令後のわずか数日間で、100人以上が亡くなった。

 ×  ×  ×

【摩文仁】
 解散命令翌日の19日、最南端・摩文仁(まぶに)の軍司令部にいた牛島満司令官は、既に壊滅状態の将兵らに「最後の一兵まで戦え」と命令し自決した。「爾後(じご)各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ」というのが、最後の命令だった。

【画像省略】
撮影者:A木S一郎

 ひめゆり部隊を含む多くの方々が追い詰められた海岸線の1つが「摩文仁」の地である。現在は「平和の礎」や「沖縄県平和祈念資料館」を含む公園として美しく整備されている。

 沖縄戦の「地獄」は、筆舌に尽くし難い。現在、多くの書籍が発行されており、生き残った方々の貴重な証言を集めたビデオもある。ぜひ目を通されることをお勧めしたい。
 
 「ひめゆり平和祈念資料館」の発行するガイドブックには、次の一文がある。

 「米軍上陸から3カ月、十数万人の住民と十万の将兵が死んだが、司令官は、これを『軍の任務を遺憾なく遂行できた』といって、『同慶の至り』とし、この事態にいたっても、生き残った将兵に対し、降伏を許さず、最後まで戦って死ねと命令した。将軍らは、住民の保護について米軍と交渉することもせず、砲煙弾雨のなかに放置したまま自決した」

 圧倒的戦力差で勝てる見込みもないまま持久戦を強いられた沖縄県民は、まさに「捨石」にされたのだった。子供から大人まで巻き込んで持久戦で時間を稼ぐ。散々に地獄を見せた上で、生き残ったとしても切り捨てる。

 大義など、最初からない戦いだったのだ。

オーマイニュース(日本版)より

※引用文中【画像省略】は筆者が附記


この記事についたコメントは20件。

20 安住るり 11/18 10:23
*この「感情マーク」に意味はありません。

私の書きこみについて「なんですかこれ?」とおっしゃるかたがおられるので、
補足します。

>>>
1946年8月15日の終戦の1年以上前から、海軍のエリートであるはずの軍医でさえ、
こんな惨めな状態だったのです。
いわんや、庶民においておや、です。

北朝鮮の現状を責められませんね。

***
日本中の主要都市のほとんどを焼き尽くされ、原爆を2発落とされて、
やっと「終戦」に至った、その1年以上前から、もう「勝つ見込みは全くない」状態だったのです。
「戦争状態」というのは、往々にして、「冷静な判断力」を失わせます。

あの戦争を、たとえば1年前に終わらせていれば(中枢にも、そういう動きはありましたが、神懸りになった軍部の指導者によって排除されました)
多くの都市の百万人にも及ぶ住民は悲惨な目にあわずに済んだし、各国の戦闘員も、巻き込まれた一般人も死なずにすんだ、負傷せずに済んだ、家を家族を失わずに済んだ。

戦艦大和が沖縄まで辿りつけないであろうことは、冷静に見れば分かっていた。
知覧や鹿屋から飛び立った特攻機が、ほとんど敵艦にダメージを与えられないことも
予想できた。しかし、そのような情報は封殺された。

現在進行中の、アメリカによる「イラク戦争」でも、「戦争をやりたい」勢力が情報操作をやった。

私が言いたいことは、単純ではありません。

みなさまそれぞれが「戦争」というものについてお考えになるののご参考に
多少ともなれば、ということです。

19 冥王星 11/18 09:45
大儀が有ろうが無かろうが、戦争に負けようが勝とうが、戦争は不条理で悲惨で、創造なき破壊でしかないのでしょう。

相手を見下し、排除し、自国民族の優位性を叫び、個の思いを塞ぎ、閉塞された時代状況が生み出す、あだ花。

私自身の中にも、敵を作り、敵を憎み、民族の優位性を鼓舞するものが、潜み、私にささやき続ける。

その、ささやきとの戦いが、私にとっての平和であり、一つ一つの行動に繋がると思っている。

それぞれの内面のささやきをえぐり出し、その作業の繰り返しがあって、初めて平和を語れるのではないかと思っている。

人間は、過去のささやきを忘れ、時代状況に流されやすい生き物だから。

18 ワルキューレ 11/17 21:32
オーマイニュース一言欄的な、不毛な論議をするつもりはありません。
ですが、「戦略的住民保護」とか、意味がよくわかりませんし、海軍司令官としてのデーにッツの発言で、デーにッツは最後は、手続きをしてないものの「総統」です。
それぞれの立場ごとに軍に立派な人物がいたことは別にして、
日本軍は、組織的には住民保護の意識の点では大変見劣りする軍、国民軍ではなかった面は否定できないし、おかしな意識の「護民官」でしょう。これは戦った戦没者の名誉を汚すつもりはありません。
司馬遼太郎のエッセイで、戦車兵で栃木に駐屯した彼が、決戦場に南下するとき、避難民が北上したらどうすると悩み、東京の大本営の参謀がきたときたずねたと。
参謀は、小さい声で、無視しろ、ばあいによっては引いてもかまわないと言ったと。
ソ連の満州侵攻で、前線部隊の勇戦と、本部の逃走と醜態は、絶望的です。
私たちの祖父母の世代は、今の価値観からすれば、そして当時からみても異様な意識の軍に、支配されていたことは否定できないでしょう。

17 罵倒観音 11/17 13:32
> ワルキューレ様

 デーニッツは大統領として軍に民間人を避難させたのであるからして、それをもって日本軍は住民保護をしなかった、ドイツ軍は住民保護をした、というのは詭弁でしょう。また、戦場レベルでの住民保護と戦略レベルの住民保護をごっちゃにしているのも感心しません。さらに、本土に敵軍が侵攻してきたドイツと、住民が居るところでの戦闘は沖縄のみであった日本を単純に比べても答えは出ないのではないでしょうか。

16 ワルキューレ 11/17 09:44
私も、消極的に最後の言葉に違和感を感じました。その言葉のみに反応する方も多いようです。ただ、旧日本軍があまり、住民保護を誇れる状況にないことはご承知でしょう。用はバランス感覚でしょう。
1・住民の保護計画は、沖縄北に避難させよという以外、ほとんどなかった。
2・兵士レベルでも教育はなかった。
住民に対する反応は将校や、兵個々人で、全く違ってしまった。

ドイツ海軍の司令官デーニッツの回想録を読んだことがあります。もちろん自己弁護の面はあるものの、ドイツ海軍の最後の行動として、ドイツ東部地域から200万人以上の民間人を避難させたと誇らしげに書いていました。
自己弁護により走っていた日本帝国海軍の提督、陸軍の将軍の回想で、民間人のために、こうしたという記述は、ほとんどない。
護民という発想がない軍であったことは理解したほうがいい。
その反省の上に、私たちは、適切に軍を扱わなければ成らないのです。

15 キバヤシナワヤ 11/17 09:27
記事全体については面白く読めましたが、締めの言葉は何とかならないものでしょうか。自分で思いついたのではなくどこかで聞いたような言葉を深く考えずにとりあえず入れたのでしょうか。

沖縄戦では住民が洞窟に潜んでいることがわかっていながら、火炎放射器を用いて焼き払ったり、手榴弾を投げ込んだりしたのも、わざわざ「民間人の中にも戦闘員がまぎれている」という文書を回覧して無差別に殺すように命令したのも米軍です。

住民といっしょに将兵が逃げれば「住民を巻き込んだ」と非難し、反対に住民を置いたまま戦闘し、自決すれば「住民を見捨てた」と非難する。
また、そうした発言をする人がこっけいなのは、ベトナム戦争におけるべトコンのゲリラ戦を賞賛することがある点です。

最初から日本軍(日本人)は悪者で沖縄人(日本人とは別の人)はかわいそうだ、という結論のために文章を構築しているのですから仕方がありませんが。
その沖縄で戦闘した日本軍の中には2万人を超える沖縄出身の将兵と軍属がいたことをどうやって説明するのでしょうか。沖縄人でも軍隊に入れば鬼畜になる、とでも屁理屈をこねるのでしょうか。

「戦争になって一番被害を受けるのは女性や子供だ」・・・なにを言っているのでしょうか。真っ先に死ぬのは兵隊に決まっているではないですか。そういう意味では兵隊を捨石にしてほかの住民を守っている行為が通常の戦争とも言えます。

この記事にもあるように沖縄はもともと軍の整備が弱かったのです。そして現在の有事法制のように住民を戦闘員と分離し、安全に逃げさせる思想もシステムもありませんでした。いつ来るのかわからない大地震に備えてさまざまな対策を施しているのに、戦争についてはこちらから仕掛けなければ絶対に起こらない、とでも思い込んでいるのでしょうか。

14 しーさー 11/17 02:09
【間違いに気づきましたので、訂正して再投稿します。】

沖縄戦で命を散らした人々を「捨石」なんかにして
はいけません。
それでは、あまりに浮かばれないではないですか。

凄絶な抵抗は、軍による強制や脅しなどよりむしろ、
住民たちの明確な意思によって、突き動かされていた
のです。

史実をまっすぐに紐解けば、沖縄の人々は遠隔地であ
ったがゆえ、本土の人々以上に日本という国を意識し、
愛国心を競ったことがわかるはずです。

当時、「最後の一人まで戦う」ことは、命令などなく
ても、一般の人々が普通に持っていた、いわば常識で
あり、誇りでした。

それが、住民たちの耐えがたきを耐えるエネルギーと
なり、結果、多くの戦死者を出す悲劇に結びついたの
です。

だからこそ、どんな大儀があろうとも、戦争をしては
ならないのです。
まさしく、人々が命を削って築いた「平和の礎」なの
であって、「捨石」などではないのです。

常に受身の愚衆が、圧政のもとでただ苦しめられ、国
を、軍を恨みながら死んでいった… という捉え方だ
けで語られるのは、地獄絵図のような悲惨な状況にあ
ってまで、己の尊厳を掛けて戦い抜いた人々の気持ち
を思うと、やはり受け入れ難いです。

13 こんせんくん 11/17 00:29
私も11月5日にひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館を訪れました。

記事では伝わらない、言葉では語れない思いがたくさんこもった地です。
是非皆様には足を運んでいただきたく思います。
そして、こちらの記事でも参照なされているようですが、館内で販売されている「ひめゆり平和祈念史料館 ガイドブック[展示・証言]」 (A4/160頁¥1,000)は是非ご購入をおすすめします。

記事にしていただいたA木様、掲載いただいたOhmyNews殿に感謝いたします。ひめゆりの少女たちも生きた証がひとつ増えて喜んでいることでしょう。

ブーゲンビリアさんのご指摘の通り、写真はひめゆりの塔そのものではありません。上記ガイドブック136ページ・148ページをご参照ください。
適切なWebのリンク先がありませんでしたが、写真も載っていましたので以下を記させていただきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%81%E3%82%86%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%A1%94

10 クリストファー・エリクソン 11/16 22:48
見て感じた事が素直に伝わるレポートでした。沖縄でこうした場所は訪れたことはありませんでしたが、行ってみようかなと思わせます。

ただそれだけに、結びの言葉は蛇足に思います。
仮にこの戦いに大義があり、完璧な指揮で最小限の犠牲で済んだとして(でも戦跡であったことは同じであったとして)、記者様が戦跡で見知った事実の重大さは変わらないでしょう。意識的でないにせよ、余計な解釈を読者に強いてませんか? そうした意図はノイズです。

記者様が感じたのと同様、出来事が持つ重さを伝えるだけで、相手には得るものがあるはずです。

9 ワルキューレ 11/16 22:17
いい記事をありがとうございました。
ただ、難しいものです。
沖縄の足止めゆえに、本土への侵攻が遅れたかもしれない。
沖縄の死傷数ゆえに、原爆の使用正当化論理の一助になったかもしれない。
沖縄の死ゆえに、あの程度の講和ですんだのかもしれない。

また、あの悲劇的な特攻、大和の出撃も、「沖縄を守る」という、日本人の強い意志の現れだったのかもしれない。
その点では「大義」は十分あったのかもしれません。
複雑な問題で、答えはでないのですが。

8 ブーゲンビリア 11/16 19:40
この記事と、この記事を今、掲載してくれた編集部に、敬意を表します。

ひめゆりの塔に行きましたが、写真はひめゆりの塔の写真でしょうか。
この写真の下に壕があり、右側に小さな碑が立っていて「ひめゆりの塔」と
書いてありましたが、両方がひめゆりの塔なのでしょうか。
どちらかというと小さな碑のほうが、ふさわしいように思ったものですから
よけいなことを言わせて頂きました。

この記事に深く感謝しています。ありがとうございます。

7 aikimaru 11/16 16:11
本当に悲しいことですね。
二度と日本の国土が戦火にさらされないように願います。
外交努力はもちろんのこと、防衛力を充実して欲しいです。
韓国は日本を仮想敵国として、軍事力を増強しています。
日本人はもっと危機意識を持たなければ。

6 罵倒観音 11/16 14:44
るりるりさん
>1946年8月15日の終戦

なんですか?これ。まあ揚げ足取りはおいといて、

つまり悲惨でない戦争ならしてもいいってことですね!
今度はよく計画を練ってやりましょう!

5 himawari 11/16 14:40
沖縄の「心」を土足で踏みにじって
得意げになってるこの記者は、
いったい何様ですか?

4 安住るり 11/16 13:43
「おまえたちは太平洋の捨て石になるのだ」と、
昭和19年、横浜戸塚の急ごしらえの【海軍軍医学校】に全国の帝大医学部から「志願」(多くの学生は、それしか選択肢がなく、仕方なく志願した)
した医者のたまごたちは、上官からそう言われたそうです。

片道の燃料しか積んでいなくても、軍艦を出すには、「軍医」と名のつく人間を乗せなくてはなりません。
当時は、軍医学校でも、ロクに食料もなく、軍医としての研修の設備もなく、はじめは風呂のボイラーすら無かったのです。上官が走り回って、ようやく、空襲で廃業した銭湯のボイラーをみつけてきました。

憧れの海軍のかっこいい制服も、結局一度も支給されませんでした。
1946年8月15日の終戦の1年以上前から、海軍のエリートであるはずの軍医でさえ、
こんな惨めな状態だったのです。
いわんや、庶民においておや、です。

北朝鮮の現状を責められませんね。

私の父は、その「最後の海軍軍医」のひとりでした。
生きて帰れたからこそ、この私が、生まれたのですが…
5人に一人以上が戦死されています。


沖縄では、陸軍が、中学生まで動員しました。
当時の県知事が、名簿を提出したのです。
沖縄きっての秀才校だった一中の男児たちは、日本の兵隊より勇敢に闘って、
200人ほどが戦死しました。沖縄戦の最終段階のことです。

首里城の南側に、記念碑があります。

3 えっちゃん 11/16 13:11
海軍の壕は見てませんが ほかは何度か
見る価値あります

2 新緑 11/16 12:49
良きにつけ悪しきにつけ戦争で亡くなった方の犠牲の上で今の日本があり、我々があります。
軍に切り捨てられた当時の沖縄の人々は60年後の今『大義など、最初からない戦いだったのだ。』のひと言で記者氏にも切り捨てられた思いがします。

多くの書籍に目を通されたて、現地にも行かれたのでしたら、最後の結びだけでは物足りなさを感じます。あなたが訴えたかったのは悲惨さと軍の残虐性だけですか。

1 T中M彦 11/16 12:18
やっぱり、有事法案は必要でしたね φ(..)メモメモ


ご長男の大田英雄氏はたしか広島県呉市の呉宮原高校で長く教鞭をとっておられ定年間近に広島市の井口高校へ校長として赴任されたと記憶しています。日本史だったかな。実際に授業を受けた生徒も1,000人は下らないと思います。人を育てるという意味で立派な仕事をなさった方だと尊敬します

形や道は違えど、似たような思いになる遺伝ってのは不思議なものですよねぇ。


オピニオン会員がいよいよ去るとなって元気にコメントをつけるようになった方がちらほらと目立ってきましたw 今までどこにいたんだよ?wwwって手を叩いてゲラゲラ笑ってたねぇw

運命の記事番号は3023番です。今しばらくご辛抱を。


定期。WBPC関連からは一時的に撤退しています。わたしでは到底抗えませんので。資料集めは継続していますが、いつ出せるやら。転げ回って笑うほどの何かが入手できたら突発的に何か書くかもしれませんが、当面の間は何もありませんし、書きません。そちらを期待なさって見ていただいている方にはごめんなさいしておきます。