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「いじめ」について思うこと:2

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003131

ーーどうしたら止められる?ーー
K保田 K美
2006-11-14 20:41

「いじめ」が人間の動物としての本能に根ざした「他より相対的に優位に立とう」「自分の存在を確実にするために他を排除しよう」「攻撃される側になる前に攻撃している人の側に同化しよう」とする根本的な行動心理から必然的に増幅されてしまうもので、無策に放置すれば人と人が関わり合う空間が存在する限り避けようがないこと。

最初から目標設定を誤り、あり得ない目標値を掲げ、「『いじめ』の無い学校にすること」を目指してあらん限りのエネルギーを注ぎ込み、「『いじめ』が皆無になったと信じるうる学校」などにはなり得ない現実に疲れ果て自信喪失して「なかったことにする」ことでしか自分をごまかせなくなり教育者としてのプライドを捨てつつある教育現場と、結果、そのあおりを食って、どこにでも今この瞬間も存在しうるのにどんなに訴えても「なかったことにされてしまう『現実のいじめ』」との間で疲労困憊して「死」のみが救いと錯覚してしまう幼い心。

だから、常にそこかしこに「いじめはある」前提で全ての対策を立て直してみませんかと提案しました。いろいろな方から賛同をいただき皆さんもやはり同じことを考えているのだなあと意を強くしました。

また前回、『「死を選ぶことで安らぎを得よう」と決心しかけた時にそれを引き留める「何か」や「誰か」がいたら踏み切らなくてすんだのではないか』という意見を述べました。

この中の「誰か」について意見を述べるまでもなく周りの人皆が見ないふりをしないことの重要性に気づくことで解決できます。

一方、この「何か」というのは他動でなく、自らの中から沸いてくる「セキュリティーソフト」みたいなものが人間の中には必ずあるんではないかと思うわけです。ただ、幼い心では機動できない。
自分でコントロールできるようになるにはなにがしかの人生経験が必要ではあるが、「自分の死への暴走を止めるこの『何か』」がじつは一番最初に述べた「いじめの行動原理」と同じ人間の本能の部分に鎮座していて、「私ってこの世で必要なんだよね」っと思わせる「何か」が実は誰にでも存在するんじゃあないかって思えるんです。
 それはたまたま今は「いじめられて」はいるが、その「いじめに励むしか自己主張の手段を持ち得ないでいる誰かさん」より「自分の存在」がより高いところにあると実感できる「何か」なわけです。

「私って世の中で必要とされているんだよね」って実感することは「自分にしかできないこと」があるってことを理解できているってことであり、「もし私が死んじゃったら世の中の人は損しちゃうよね」って思えることでしょうか。もしくはそこまで行かなくても「自分がすごく得意なことや自らの性格について、人に対し自慢できることがある」と確信し実感できるようになるって事じゃあないかと思うわけです。

「えっ、それだけで死へのブレーキになるの?」と思われる方もいるかもしれませんが、「自分の存在をポジティブに考えられる事」ほど「死」と離れた存在は無いと思うのです。これこそが自らの内から沸き出でる「ブレーキ効果」だと私は思うのです。

実はそういうことをこそ、個々の生徒に気づかせ伸ばしてあげる事ができるのが教育の現場ではないかと思うわけです。そういうことを生徒に気づかせる事をこつこつと続ける教師がいて初めて「仰げば尊し」の歌に現実味が加わるわけです。
もちろん先生だって間違いなく人間だから失敗もすれば勘違いもする。でも意識して「そういう方向でがんばっていこうよ」と訴える先生がたくさんいる学校なら必ず「救い」が存在するような気がします。
そういう先生の失敗や勘違いも含めて「ああでもないこうでもない」と自由にコミュニケーションできる空間が自然と生まれるのが理想なんでしょうね。自然に生まれなければ先生方が意識して作ればいい。
そういう中で生徒は「自ら」であったり先生に刺激されたりしながら「私らしさ」や「私しかできないこと」を学び「人間としての自信」に芽生えていくのだと思います。専門的には「自我の確立」とか言うらしいですが、難しく考えると考えている段階で投げ出したくなります。肩肘張らずにリラックスして「私は・・・・・です」と自信をもっていえるようになるのが大切だと思います。

そんなこと言ったって「いじめ」の現場は「心理的追い込み」や「肉体的虐待」が激しくてとてもじゃないがそんな悠長な発想をする余裕なんてあればこそだという声も聞こえてきそうですが、ここで先の「誰か」のサポートがあればその余裕をわずかでも持ち得るし、十分に立ち直るきっかけを掴むことにつながるようになると思います。
その「誰か」はやはりこういう問題に正面から取り組み、みんなで日頃から自由なコミュニケーションをする中で培われる相互信頼みたいなものの上に立って初めて生まれてくるものだと思います。

ところが実際は「受験対策の効率」と「受験の実績」だけで評価される学校と、そういう学校に対して極めて寛大な理解を示す教育委員会という構図が見えてしまう現状。その中で先生だけでなく生徒も父母も病んでいる。国や社会がそれしか価値を認めていないんだからそうなるのは当たり前。
やはりこれは教育基本法以前の問題として国が憂えなければならないと思います。安倍さん!うわべだけじゃあなくちゃんと考えていただいてます?「美しい日本」は私も大賛成。でものろしはただ上げればいいってもんじゃあない。そののろしの示す伝達事項が末端まで速やかに確実に伝わり、そして戦術に反映され結果を出すに至るまで浸透して初めて「意義あるのろし」になるんですよ。(もっともその伝達事項が正しい内容であるという前提ですが。)

誰がなんと言おうとこのままではまずい。「今の受験対策を全うした人」だけが「合格」の果実を手にでき、社会でも上層へ上る切符を手に入れうるという社会の仕組みがあり、そうできた人を「勝った」と言ってはばからない現実がある限り、教育の現場で「私探しをしよう」なんてそんな悠長なことを言っているやつは確実に落ちこぼれのレッテルを貼られてしまう。でもそれを肯定せざるを得ないような仕組みのままに放置したら国が病んでしまう。

人生「勝ち負け」が全てじゃあない社会って言ったら格好いいんでしょうが、現実は生活がついて回る以上、そして今の仕組みの中で勝ち残らないと生活の向上が見込めない様な仕組みの中ではやむを得ない部分もあります。が、「勝ち負けだけで生活が変わる」ではまずいんじゃあないかと考える人が多くなれば違った仕組みも可能になるような気がします。「勝ち負け」が人の向上心の源の一つでもある限りは完全否定できませんが、人生には「納得」っていう大きな目標があることも学校では教えるべきでしょうね。人生の最後に「納得した人生」を得られた人とそうでない人の幸福感には大きな差があるって事をもっと教育の現場でも教える必要があるんじゃあないでしょうか。

やはりその人その人に合った道筋が見えていて「自分の得意な事」を極めることが社会で居場所を確保できることに直結するような社会全体の仕組みが必要だと思います。それには社会を構成する各々の人や会社や学校やいろいろな集団がこういう論議に積極的に顔を出してメセナでもなんでもいいから社会の一員である実績を積むことが一方で必要だと思います。

「子供は社会の宝」と言うシチュエーションを政府も社会の仕組みももちろん各会社も、当然学校も、先生も父母や地域の人たちももっと真剣に考え、口先だけでなくそれぞれの子供自身が「必要とされている」と実感できる雰囲気を作るべきです。
そうすれば子供だって安心して「自分探し」ができ、「自分は人とは違うけど社会から、他の人から必要とされている」と実感できるようになる。
そういうことを実感できる社会なら、極端な話、多少の「いじめ」に合っても、「自分流生き方へのこだわり」や「私の生き方探し」に終止符を打つ選択には自ずとブレーキがかかるはずだ。

ただそういう風に「子供を宝物」扱いすると「子供の言うことは何でも聞く父母」と「わがままで大人の言うことをまともに聞かない道徳観の欠如した子供」という構図も見えないわけではないが、それは現代のようにそれぞれがそれぞれに「子育ての責任」を押しつけ合っている仕組みの中だからこそ危惧されるのであって、社会が変わり学校が変わり父母の考え方も変わり国も変わってそれぞれが積極的に「子供を真剣に育てる」姿勢を貫く決意の中で自然に解消され得ることではないかと私は楽観してます。

そうすれば別の効果として「出生率」もあがるはずです。「生みやすい環境」や「育てやすい環境」というのは何かかっこうのいい施策一つで達成できるものでは無く、こういう問題に一つ一つ真剣に取り組み、現実を見誤ることなく、かといって実態の伴いようのない理想だけに固執せず現場の生の声に即した解決策を矢継ぎ早に打ち続けることしか無いように思うのは私だけでしょうか。

「いじめ」による破滅を避ける方法が結果的に社会そのもののあるべき方向につながるというのは当たり前すぎるくらい当たり前なんですが、その当たり前のことがうまく回ってない現実を前にし、過去の失敗にうちひしがれる時間を惜しんで、改めてその「当たり前」をまじめにやっていこうと心に誓い、私を含めた全員が今この瞬間から実行に移そうではありませんか。
また「そういう事に取り組みます」と明言することが今現実に各地に散らばっている「自殺予備軍」にたいする大きなメッセージになると私は考えます。

オーマイニュース(日本版)より

1記事1テーマで。長すぎて何を言いたいのかわかりません。

阿Qの精神的勝利もある意味で生き延びるための方策かもしれませんね。