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徳川家康は売国奴だった

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000002556

それでも天下を取ろうとする執念
K野 Y一
2006-10-21 22:04

 私は石田三成がなぜ合戦までして徳川家康
の天下取りの野望を阻止しようとしていたの
か理解できなかった。

 豊臣家に対する忠義なら家康や東軍の諸大
名にもあり、その考え方が違うだけだ。

 三成と豊臣秀頼を産んだ淀君との恋愛関係
や淀君の悪女的性格は庶民が喜びそうな噂話
で、これが本当なら西軍に集まる諸大名はい
なかったはずだ。

 たんに家康嫌いというだけで合戦を仕掛け
ることが無謀なのも分っていただろう。

 家康はこの当時の平均寿命を過ぎ、天下取
りの最期のチャンスに焦って、なりふりかま
わず強引な行動をしていた。

 その頃、三成は暗殺されそうになり、家康
によって奉行の職を解かれ隠居する破目になっ
た。

 計算高い三成ならここで辛抱して家康の死
を待って、豊臣家の再興をすることは計算で
きたはずだ。

 ところがここに思わぬ人物が登場する。

 1600年4月11日、今の大分県、臼杵
市の島にオランダから出航した東インド貿易
の船、リーフデ号が漂着した。

 この船に乗っていた航海士にイギリス生ま
れのウイリアム・アダムスがいた。

 外国船漂着の知らせを聞いた家康は船を江
戸までえい航させ、その造船技術や大砲など
の性能に惹かれ、ウイリアムを軍事顧問にし
た。

 これらはすべて内密に行なわれただろうが、
奉行だった三成の耳にも入っていただろう。

 ウイリアムを軍事顧問にした頃から家康は
さらに行動が大胆になり、周りの制止も聞か
ずに上杉討伐に動いた。

 三成はそれをチャンスとみて行動したとさ
れるが、明智光秀が織田信長を攻めて滅んだ
ことを知っていたはずだから本来、うかつに
動くことはなかったはずだ。

 三成はウイリアムが軍事顧問になったこと
で外国の侵略を懸念し、それと手を組もうと
している家康が売国奴に見えていたのではな
いだろうか。だから三成は家康の野望の阻止
に焦って行動し、豊臣家とあまり信頼関係の
なかった毛利家が三成の要請を受け入れ、西
軍の総大将になったのではないだろうか。

 この年の9月に関ヶ原の合戦があり、ウイ
リアムも居合わせた。

 ウイリアムが関ヶ原の合戦でどんな役割を
演じたかは分らないが、もし軍人だったら日
本の軍事行動を観察し、自国に日本の弱点を
報告していただろう。

 幸いウイリアムはビジネスに力を注ぎ、造
船やオランダ商館、イギリス商館の設立など
をした。その後、家康から250石の領地を
与えられ、三浦按針と名乗るようになった。

 家康の死後、鎖国が始まり、外国の侵略は
なかったが、その危険を冒してまで天下を取
ろうとした家康の執念を感じる。

オーマイニュース(日本版)より

このような歴史考察記事はスキです。一見トンデモのように見えて思いもかけなかった視点が書かれていたりもしますので。邪馬台国四国説とかも興味深く読ませてもらっています。

「ワタシはハタモト!ワタシハサムライ!」ってセリフを知ってる人、どのくらい生き残ってるんだろ。