徳川家康は売国奴だった 1 ねなしぐさ はじめ 2022年7月29日 08:14 引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000002556それでも天下を取ろうとする執念K野 Y一2006-10-21 22:04 私は石田三成がなぜ合戦までして徳川家康の天下取りの野望を阻止しようとしていたのか理解できなかった。 豊臣家に対する忠義なら家康や東軍の諸大名にもあり、その考え方が違うだけだ。 三成と豊臣秀頼を産んだ淀君との恋愛関係や淀君の悪女的性格は庶民が喜びそうな噂話で、これが本当なら西軍に集まる諸大名はいなかったはずだ。 たんに家康嫌いというだけで合戦を仕掛けることが無謀なのも分っていただろう。 家康はこの当時の平均寿命を過ぎ、天下取りの最期のチャンスに焦って、なりふりかまわず強引な行動をしていた。 その頃、三成は暗殺されそうになり、家康によって奉行の職を解かれ隠居する破目になった。 計算高い三成ならここで辛抱して家康の死を待って、豊臣家の再興をすることは計算できたはずだ。 ところがここに思わぬ人物が登場する。 1600年4月11日、今の大分県、臼杵市の島にオランダから出航した東インド貿易の船、リーフデ号が漂着した。 この船に乗っていた航海士にイギリス生まれのウイリアム・アダムスがいた。 外国船漂着の知らせを聞いた家康は船を江戸までえい航させ、その造船技術や大砲などの性能に惹かれ、ウイリアムを軍事顧問にした。 これらはすべて内密に行なわれただろうが、奉行だった三成の耳にも入っていただろう。 ウイリアムを軍事顧問にした頃から家康はさらに行動が大胆になり、周りの制止も聞かずに上杉討伐に動いた。 三成はそれをチャンスとみて行動したとされるが、明智光秀が織田信長を攻めて滅んだことを知っていたはずだから本来、うかつに動くことはなかったはずだ。 三成はウイリアムが軍事顧問になったことで外国の侵略を懸念し、それと手を組もうとしている家康が売国奴に見えていたのではないだろうか。だから三成は家康の野望の阻止に焦って行動し、豊臣家とあまり信頼関係のなかった毛利家が三成の要請を受け入れ、西軍の総大将になったのではないだろうか。 この年の9月に関ヶ原の合戦があり、ウイリアムも居合わせた。 ウイリアムが関ヶ原の合戦でどんな役割を演じたかは分らないが、もし軍人だったら日本の軍事行動を観察し、自国に日本の弱点を報告していただろう。 幸いウイリアムはビジネスに力を注ぎ、造船やオランダ商館、イギリス商館の設立などをした。その後、家康から250石の領地を与えられ、三浦按針と名乗るようになった。 家康の死後、鎖国が始まり、外国の侵略はなかったが、その危険を冒してまで天下を取ろうとした家康の執念を感じる。オーマイニュース(日本版)よりこのような歴史考察記事はスキです。一見トンデモのように見えて思いもかけなかった視点が書かれていたりもしますので。邪馬台国四国説とかも興味深く読ませてもらっています。「ワタシはハタモト!ワタシハサムライ!」ってセリフを知ってる人、どのくらい生き残ってるんだろ。【🏆 #エミー賞 🏆受賞作】リチャード・チェンバレン/三船敏郎/島田陽子「将軍 SHOGUN [ノーカット字幕版]」2/11(月)よる11:00スタート!実在した航海士・三浦按針をモデルに描き、一世を風靡した海外ドラマが登場!吹き替えではなくノーカット字幕版でお楽しみください!#時代劇 pic.twitter.com/tDsuBraYlV— 時代劇専門チャンネル (@jidaigekich) February 4, 2019 ダウンロード copy #OhmyNewsJapan 1