履修するとはどういうことか? 3 ねなしぐさ はじめ 2023年1月23日 06:34 引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=0000000002801必修科目の未履修問題に思う教育の問題T中 T2006-11-02 08:14【画像省略】写真はイメージ 高校での必修科目の未履修が問題になっている。センター試験までは3ヶ月を切ったいま、大学受験を控える高校3年生にとっては大切な時期だ。この時期に受験に必要な科目の勉強時間を減らして、受験に関係ない科目を勉強しなければならないというのは寝耳に水の話であるだろう。しかもどうすれば卒業できるのかさえも定まっていないという状況だ。受験が日に日に迫る焦りに加え、「本当に卒業できるのか」ということに対する不安など精神的に非常に苦しいだろうことは想像に難くない。 いま文部科学省は、70時間程度の補習を受ければ卒業を認定するという案を検討しているようである。ともかく、できるだけ早く救済措置を決定して、受験生に少しでも安心して勉強できる態勢を整えてあげてほしいものだ。 ただ、この問題が出てきて思ったことがある。「履修するとはどういうことだろうか?」ということだ。基本的には学習指導要領で教科ごとに定められた内容をひと通り勉強する。つまり「教科書内容をひと通り終える事」が履修するということになるのではないかと私は思う。 仮に「教科書内容をひと通り終える事」が履修するということだとすると、どれくらいの高校が生徒にきっちり履修させる事ができているのだろうか? 自分の経験から言わせてもらうと、例えば世界史Bの内容は自分の学年の進度が例年に比べてもやや遅かったらしいが、アメリカが独立しないままに終わってしまった。 自分の母校は、進学という物差しで測れば良くみて「中の下」くらいではあったと思う。そういう理由もあるかも知れないが、自分の母校に比べて、進学校の高校でも「全範囲は終わっていない」という話を聞いた事がある。 「教科書をひと通り終える事」が履修するということだとすると、おそらくとんでもない数の未履修が発生するのではないか。今回の未履修問題は、大学受験偏重であるとか、問題が起こった高校の問題ではないのかもしれない。学習指導要領を含めて、「学校教育全体に問題が生じている表れなのではないか?」と思う。最近、「教育再生」の必要性が訴えられている。それに「ゆとり教育」からの軌道修正の風潮もあるように思う。しかしもっと根本的に学校教育全体を考え直してみる時期がきているのかもしれない。オーマイニュース(日本版)より※引用文中【画像省略】は筆者が附記この記事についたコメントは21件。21 X 11/11 02:01>問題認識した者しか得られない究極の科学ではないか、と思えます。うーん。私は単純に学習指導要領(中学生や高校生が学校で学ぶべきこと)の話をしているんですが、Tonyさんは「学ぶとは何か」のような深いテーマの話をされているように見えますね。それとも、松下村塾や適塾こそ高校生が学ぶのに最良の学校だと?もう少し私が人生経験をつんで利口になればTonyさんのおっしゃっていることが理解できるかもしれません。またよそのトピックスでお会いしましょう。20 Tony 11/11 01:49補足試行錯誤をするのは、問題解決をするための実体験の道程なのです。それに、どうすればよいとか、何をすればよい、と回答があるなら、それ自体、試行錯誤では、ありません。ただ、感性を研ぎ澄まし問題認識を発見できれば、失敗を恐れず、アイデアを駆使して、洞察力や分析力あるいは観察眼を用い、問題解決方法や解析方法あるいはそのToolを生み出すProcessの全体と、その過程で派生的に生じる新しいアイデアや思想から生じるテクロジ-を共通認識して、一般化(原理化)する体系とでも解せましょうか。あるいは、解決方法が見出せなくとも、求める解決に一番近く、実質的に用いうる方法なのかもしれません。いずれにしても、問題認識しても、解決方法の過程おいても無限にある中から、知識の集積を試み選択して得られる行為に、唯一の回答だけであるはずもない試みをする試行錯誤に答えがいつもある訳がないこと、と思えます。それは、問題認識した者しか得られない究極の科学ではないか、と思えます。19 Tony 11/10 01:00続き。うまく表現できなくて、お分かりならないこなのかもしれないが、たってのお求めなので、申しますが、お分かりにならなければ、若輩者として、私の考えを割愛されても結構です。よろしく、お願いします。過去の具体的イメ-ジですが、強いて言えば、吉田松陰先生が開いた松下村塾ような教育ではないか、思います。獄中に繋がれてもなお、学問おけるその真実に迫り(たとえ、女性の考えでも真実を求める能力があればそれを評価する)、現実の世界を見据えて深い洞察力(あらゆる知識がそのもの対する現実主義の中から、学びを求めてくる者を拒まぬ姿勢)と俊敏な行動力(米国の力を知らないと感じれば、黒船に乗り込んでもその目的を果たそういう気概)などの学問に対する敬愛と学びを求めるひとへ慈愛を感ずるからです。だから、幕末の志士の中に人斬りと呼ばれる者や頑な身分制度を求めるひとが居たにも関わらず、彼が死しても、幕末の志士はその灯火を絶やすず引継ぎ、明治の近代化に進めることができたのではないか、と私は確信し、これが教育なのではないか、と信じているのです。 しかし、賢明な貴方様の考えでは一部のエリ-トの成し遂げたことで、現在の日本では成し得ぬ代物であるから、松下村塾のような教育をも学び取り活用することができないことだ、仰せなら、私のような考えもひとつの教育的なものなのですが、私は諦観するしか道はない、と思います。すべては、次代のひとが少しでも希望ある社会なることを希うことのみなのです。「色ハ匂ホヘト、散ヌルヲ」滅び行くものに美あり。18 Tony 11/10 00:51>17さんへ>幕末の社会でさえ~ダイナミズムがあった日本人なのですが。>私は幕末志士達は奇跡的に生まれたごく一部の優秀な人間ととらえております。一般的な学校教育で生み出せるものではないのでは?今までにも、私のコメントの端々に申し上げているつもりですが。学生たちが考え抜き、忍耐強く試行錯誤しながら(4項目の基礎力は重要とも言えますが)学び取ることができることにより、人生豊かな生活ができる能力や自分自身の深い洞察力や感性を活かして物事の本質に迫る分析力などだ、と思えるです。知識を智慧に変える試行錯誤が教育なのかもしれません。要は大学入学する者を養成することではないのです。だから、現実の選抜入試制度を全廃して、上級校全入制度に転換して、正規授業を受講後の履修認定をきちんと評価基準に達しているかをもとに全入することです。現在ような、現実の履修課程は履修していようがいまいがあるいは履修認定の基準を達している言えなくても、卒業させるのではありません。すなわち、学生自身のすべて能力の使い、考え抜くことを評価する論文、あるいは口頭試問の形式が履修認定が重要かもしれません。当然、すべての学生の能力の評価は、得意不得意でばらつきがあるのはずです。だから、すべての得意な専門能力を持つス-パ-マンの必要性を求めることができないしても、各個人の能力や特性の秀でた部分を評価する適正評価を推薦状の基準すれば、幅広い社会活動に必要な人材を社会に輩出できる可能性があるのです。すなわち、学校が学生を選抜するのでなく、学生が進むべき学業を選抜する進学制度にならないかを考えているのです。そういう意味で貴方様がお考えのようなイメ-ジの設問に答えることができないし、貴方様の考えでは、荒唐無稽なことだと、斬り捨てられることになるのではないか、考えているのです。続く。17 X 11/09 01:54>Tonyさん>現在の学校教育に期待できない。だから、放置しろ例にあげた4項目については、レベル向上を期待していますよ。Tonyさんは4項目にあまり価値を見出されなかったようですが、私は社会に出るにあたっての基礎力として非常に重要だと考えております。>なにもかも、ご承知のうえで、シニカルに私にわざとご質問されているのでしょう、と思います。いえ、けしてそんなことはないです。私は受けてきた教育レベルが低いせいか理解力に乏しいようで、具体例なしにはイメージが浮かびません。Tonyさんは具体的に、どのような教育が望ましいとお考えなのですか?試行錯誤するにしても例えば何をすればよいのですか?世界には、あるいは過去にはTonyさんの理想とする学校はあるのでしょうか。>学校教育が若い力を芽吹かせる火種になるべきぜひそれに向けてのアイディアをお聞かせください。16 Tony 11/08 07:53>14 xさんへ確かに、現在の学校教育に期待できないことは、私も理解できるのです。だから、放置しろ、と言われば、余りにも、絶望主義と言うか、敗北主義に陥っているような気がするのです。こんな、未履修問題ぐらいで、大騒ぎするぐらいなら、もっと現実の学校現場をよく観るべきだろう、と思うのです。賢明な貴方自身ゆえに、なにもかも、ご承知のうえで、シニカルに私にわざとご質問されているのでしょう、と思います。私の考えなどは、小事で解決に少しも役に立たぬ、愚論と思し召しなのでしょう。今のおとなが、もがきながらでも、何かよい方法ないか、考え抜き、次代を背負って立つ、独立自尊の若者に手を差し伸べ、引き継いでもらえることができる希望ある社会になるように思うこともできない時代なのでしょうか?いずれは、おとなは老いゆくばかりで、最後には老人は世にとって、必要な人材として生きてゆくことできなくなり、消え行くのみなのです。その間の少しばかり猶予期間の何かの手ほどきこそ、教育なのです。教育すれば、若者にとって役に立つことや生きるための、すべてはではありません。それでも、学校教育が若い力を芽吹かせる火種になるべき、と思えるのですが。それも、ないと仰せなら、それは、我々の社会が文明社会から消えるしかない、と言えるのではありませんか。日本文明という社会もあまりにも、成熟し過ぎて、腐っていくしかない林檎、あるいはロ-マ帝国の滅亡のごとく。それは、それで、次代の社会が決めることで諦観致しますが・・・。幕末の志士の危機意識が時代の寵児を生み出し、その試行錯誤による奇跡を待つしかないですね。幕末の志士は現代の水準(知識ことでなく、人生観のこと)の、普通のひと、否それ以下かも知れません。そういうひとは現在は嘲りの対象ですから。諸行無常それもありです。14 X 11/07 22:10>13 Tonyさん>学校教育に期待するものがない学校でも会社でも、過剰な期待は良くないと思いますよ。私は今の若者は娯楽が溢れてて生きてるだけで楽しいので、少しくらい縛りを与えて我慢する力を養って欲しいと思いますね。>幕末の社会でさえ~ダイナミズムがあった日本人なのですが。私は幕末志士達は奇跡的に生まれたごく一部の優秀な人間ととらえております。一般的な学校教育で生み出せるものではないのでは?>寧ろ、受験体制を廃止して、少子化時代ですし、名前を漢字で書けたら入学できる学校はいくらでもありますよ。そういうことではないんですかね?どうも論点がバラエティに富みすぎててTonyさんの理想とする教育のイメージがよくつかめないのですが、国内でも海外でもどこかモデルとなる学校がありますか?13 Tony 11/06 22:53>12 う~ん。この意味は学校教育に期待するものがないと、感じておられるのでは? それは、学生や教育現場にとって、悲劇というべきか、喜劇というべきか・・。 求める要求基準:1. 時間厳守も家庭教育で十分かもしれないし・・。 2.の中に集団行動、集団生活が含まれるだろうし、3. いわゆる正規授業と呼ばれる現場があまりにも退屈で学生とって最も多感な時代に意味不明のまま、時間が過ぎるが可能性が・・・。4.大学受験ありきでは、已む得ぬ必需手法ですが、人格を求めるにはどうなんですか? 現実の実態を勘案する、やむ得ないことです。 正規授業で驚きと感動を覚える授業を得て、自分から学ぶ取る学校教育にならないのでしょうか?実社会が学校に夢と希望を持ち得ぬ現代社会では彼らが背負うべき次代はどうなるのでしょうか?そのうえ、教育費の国庫負担あるいは社会的負担が33%も削減している教育行政の現状を考えると、こどもを育てる意欲さえ起こらないのですね。私は、社会資本投下を教育ぐらいは明日の日本を繋ぐ基本政策として確保して、「ひと、もの、かね」と教育の質を向上をさせる学校現場に新技術、新手法、新理論を打ちたてて、改善を学校現場を含め、日本社会で支える必要性を感じているのですが。それもできない社会なのでしょうか?幕末の社会でさえ、文明のドラステッィク チェンジを身分社会から近代社会に切り換えるダイナミズムがあった日本人なのですが。あの、尊王攘夷論という排外思想の中から、ドラステッィク チャンジをした日本人こそ、真のナショナリストと思えますが。今、教育改革を叫ばれて、教育再生など言っておりますが、そのようなスロ-ガンだけで、社会改革は成り立ちません。寧ろ、受験体制を廃止して、正規授業の履修課程の履修認定の要件と本人の人格を評価する推薦状の要件で、上級校の入学認定をすることができないのでしょうか?12 X 11/06 00:51>11 Tonyさん>真に必要な学問的に良識を教育現場で示す教育うーん。また大上段に構えましたね。具体的にはどのような授業をするべきだと思いますか?(哲学論議とか?)私が子供(まだいませんが)を通わせたい中学・高校は端的に言うと次のようなものです。数字は希望する順です。1、時間厳守、集団行動などを通じて集団生活における秩序を身につけさせる2、文化祭、体育祭、クラブ活動などを通じて集団生活の楽しさを学ばせる3、定められたカリキュラムを上手に教える。4、筆記試験のテクニックを身につけさせる。「真の見識」とか「本質を見抜く力」を教えるのは中等・高等教育はもとより大学教育でも難しいように思えます。そのような曖昧ものは学校教育ではなく両親が直接教えたほうが良いのではないでしょうか。11 Tony 11/04 21:09そうです。うわべの履修課程を習得して、学生の真の知識にならなかったら、社会の害毒しかならないのです。例えば ホリエモンです。(彼の個人攻撃しているのつもりはありません。特定の人物を想定したものでなく、人物像をしたてあげたマスコミのイメ-ジの人物像のことです。)この人物は高学歴で卒業し、株取引の自社株取引の利益で、一時、その財力で世間にもてはやされました。しかし、その後、取引上の不正疑惑が起こり、現在の彼の立場は険しいものがあります。別に彼が未履修であったかどうかは、知りませんが、真の見識があるひとであれば、法律スレスレの取引で、合法的であろうとなかろうと、利益を得られば、それで勝ち組、という世界にはなりません。そういう見識をもちえる教育をするには、たとえ自分に不利益で苦しいことになるにしても、真に必要な学問的に良識を教育現場で示す教育でなくては、なりません。今回、政府や政党人あるいは教育委員会などの教育関係者は「へへぇ~、お上ごもっとも」と言って、道理を引っ込め、問題の本質の解決の努力をしないで済ませて、大学受験ありきの必修科目の履修単位を削減での救済案とする数合わせで誤魔化す現実がここにあるのです。要は「臭い物にふた」で後はケセラセラなのです。教育界でこういうことが罷り通っては、学ぶ生徒は悲劇以外ありませんし、何と言う教育再生なのか、私には分かりません。私は教育者に生徒に何を学ばせるのか(正当性ない方法で履修単位を取得する方法のこと)を問いたいものです。それが、ホリエモンの論理の生き写しそのものです。10 呆 11/04 12:52>>7>>8>>9要するに、生徒や保護者が生徒の通っている学校に対して要求すべきことであって、外野がぎゃーぎゃー言うことではない。ましてや一般論で是非を問うてもしかたがない。世の中のこの大騒ぎ。バカみたいですね。9 Tony 11/04 12:20続き。だから、法律とか基準あるいは罰則がないからということで、問う問題ではなく、必修履修課程を履修することが上級校や社会に必要欠くべからずな知識や技術と学力を擁し、守る必要性のある履修課程を習得させるべきだ、と言っているのです。法律とか基準あるいは罰則がないからで履修問題を矮小化してしまっては、学生はなぜ大学で学ぶ必要性があるのか矛盾律、問わねば成りません。学業を積むことは、あらゆる知識や技術を習得し、その知識や技術から学んで血と肉とし、それを世の中に還元することです。名工、名人などのプロ職業人は、幅広い知識とより深い経験と洞察力と強い勘を働かせ、優れた物・優れた発見あるいはアイデアや理論を打ち立ています。その基礎となる、知識や技術は試行錯誤うえ工夫することで養われいます。履修課程はその基礎となる必須要件であるべきだし、そうである履修課程にすることこそ重要なのです。畑村洋太郎の著書 失敗学では失敗の根源はその問題の背景にある。その背景の解決なしには、真の失敗の克服はできない、としています。学業の本質も失敗しても、なお試行錯誤して問題解決の本質に迫ることなのです。大学受験があるから、みんなが単位不足いるからお目こぼしを貰って、大学へ進学するなどの安易な解決法では、何の教育効果などありません。学業を努力と研鑽で学び、遠回りでもいい、きちんと履修することこそ、その効果は計り知れません。春季卒業、春季入学制など誰が決めたのか、そんなに急いで習って習得単位を取得しても、学生の血となり肉となる知識と技術と成り得るだろうか、もはや、そんな補習させて習得させる必要性があるのか、疑問なのです。8 Tony 11/04 12:155>,6> さんへ 私はル-ルを守るべきと、申しません。現状、学習指導要領で指導しても、学習指導要領の必須要件が必要欠くことできない必要科目として指導している内容とも言えないし、適切な指導時期に一貫性をもった体系で指導して言えないし、指導した内容が十分に履修されたという保障ができているとも言えません。現状は、文科省の認定した指導要領を基準で指導する求めているだけで、どのように体系的一貫性のある指導方法や技術で、履修できる内容を、十分に指導して、履修目標を学生が完遂する、という履修認定の基準に達したいうことを担保できる教育水準は学習指導要領の基準でも顕かできない基準なのです。だから、学習指導要領ありきや大学受験ありきの解決策で学生を指導しても、本質の必修取得履修課程になり得ず、根本的な解決の基準にもなりえません。しかも、本質的に6の方の言うとおり、学業を得たい者が学習する内容を与えようとするに、「素直に喜べない」、この大学受験偏重主義こそ問題なのです。本来、指導教育契約で指導要領通りの契約で学習することに対し債務不履行をして学習する機会を奪った当局に対し、契約違反したのだから、債務履行を迫り、賠償責任を負わせるのが学生側の筋と言うべきです。それを、受験救済策の名のもとに、なあなあで1件落着では、受験者側の責任も同罪と言うべきです。赤信号、みんなで渡れば怖くないでは、いつまで経っても、解決の道は程遠いものです。最大で最短の解決法は入試制度廃止、在学履修認定制度による上級学校の中高校生、全員受入れし、その後の修学適正度のチェックによる志望修学科や志望校の入れ換えする適正志望校全入学制度にすべきではないか、と思う。続く。7 Yan 11/04 11:45>>5100時間行いなさい。→実際には80時間でした。のような裁量は黙認されているようです。授業を一切せず、野球、サッカー等だけを行って高校卒業になるってのを認めないのと同じといえばわかりますか?「基準だから守らなくていいんでしょ?」が”常識的”に駄目だというのがわかりますよね?アメリカのように「何でもクズでバカな人でなし向け」に完全にきっちり作るべきというなら別ですが。>>また、罰則はあるのですか?学生を卒業させられないというのが事実上の罰則。#あんな学校には通わせられないという事になる。6 森野蛸 11/04 09:06せっかく勉強できる機会が増えたのに、それが喜べない国。勉強したくても出来ない国もある中で、本当に贅沢な話。勉強できないままで終わるところを、ちゃんとできるようになったのに、喜べない生徒。彼らをかわいそうという政治家さえいる。そして、親。病んでいるのは間違いないな。5 呆 11/04 03:21ルールを守らないといけない、という方に質問。学習指導要領って、満たしていないと卒業できないんですか?どの法律でどのように決まっているのでしょうか。また、罰則はあるのですか?学校教育法施行規則第57条の2 ...教育課程の基準として文部大臣が別に公示する高等学校学習指導要領によるものとする。基準でしょ? がんじがらめの規則ではない。4 X 11/03 02:39記事にほぼ同意です。盛り上がってる”高校生には理解できる学校の「親心」”のほうにコメントしてるのでこっちではあんまり言うことありません。http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=0000000027103 Tony 11/02 21:54続き歴史を古代、中世、近世、近代と教えていることの逆方向で現代から古代へと教えてもよいとも、思っています。そのように、必要必須でないものもある必修課程の見直しも必要だろうし、大学入試制度を廃止し、大学全入と大学入学後の6ヶ月間の入門カリキュラムとしての学生適性度チェックから専門分野割付制の入学生交換制度で希望大学進学制にすべき、と思う。大学入学後に専門教育や学術的教養を向上をする学生本人が精進して履修して卒業すべきで、そのときの大学卒業資格試験を厳格にして、卒業させるべきです。高校にしても、大学にしても入学選抜試験に重きにおき、卒業資格試験を軽んじている現行の学校進学制度こそ問題なのです。だから、高校の多くの進学校と言われる学校が裏カリキュラムを作り、大学進学に専念して、単位習得させて履修させ、高校生に必要な生活知識と技術を見に付けさす事が疎かにになり、未履修問題に発展した、と言っても過言ではない、と言えるのです。元凶は私たちの社会が大学進学入試制度を廃止して、真に勉学を志、学業を以って、世の中に貢献できる学生を育成することです。大学に進学する者を養成するのでは、ありません。このことの問題はいじめ問題でも同根の問題であることも付け加えます。さあ、この問題の背景となる原因が見えてきたのです。日本社会は大学入試制から大学卒業資格制度に切り換えれるかという分水嶺を切り拓けるかが、問われています。2 Tony 11/02 21:28T中 T>本当は、学校がおかしいことは、気が付いています。小、中の学習課程でも、きちんとすべての生徒が履修されていなくても進級させてたり、卒業させているのです。高校での必修履修課程にしても、状況によって授業編成を変更しているのは、実情です。また、進学の必修科目でないことで、より大学の予備校化していることも事実なのです。私も、例えば、世界史で古代文明でエジプトの歴史を習うが、それが現代社会の接点なのか、何か、と言えば何もなく、寧ろ、パレスチナ問題でのイスラエル建国と第2次世界大戦の戦後処理の方がより接点が深い、と言えます。もちろん学術的には、イスラエル建国は古代エジプトやペルシャやその後のロ-マ帝国時代の歴史が影響しています。また、世界史で南アフリカのボ-ア戦争とアパルトヘイトなどのようにアフリカ諸国、南米・豪州あるいは北米における原住民との争いなど数々の世界史があるのです。でも、そんなこと全部は教えません。せいぜい、世界史の中で欧州、中国史が中心でその他の地域でイスラム世界・インドぐらいなものです。だから、世界史が必要ないといえませんが、現代世界との接点が重要なのに、年度末の授業で現代との接点の多い、前の日中、太平洋戦争と第2次世界大戦とその後、歴史について今の学生がどれだけ分かっているのか疑問です。だから、必修履修課程と雖も、必ずも必要必須のものを学習させているのではないとも言えます。続く。1 北斗星 11/02 11:06高校の必修科目での単位不足に関して。各高校の卒業生は卒業までに単位を取得しなければ卒業延期を図るべきと考える。まじめに単位を取得した生徒もいる訳であり、その生徒達との時間軸の調整を行う事がベストと思う。これは、日本全体の教育の問題であり急いで事を解決しても将来的には、なんの解決にもならない。問題の原因と本質、責任を厳しく関係者を追及するべきである。卒業生のいない年もあっても良い。高校生の進学を希望した大学は、少ない入学者で経営も大変と考えるが、文部科学・他、教育関係者の自己責任と考える。その間(次年度)に国民総意での問題解決を図る事が先決と思う。単位の無い学生は、絶対に卒業させるべきでは無い。「そなに急いで何処へ行くのか・・・日本は・・・若者よ・・・賢い大人にだまされるな」「最低限これくらいの知識・技術は持っていなさいよ?」が履修の意味だと思います。あ、家賃の方は複数団体間の資金整合を取ると、政治資金規正法違反の疑い濃厚なんだな。終わったな、これ。党本部が説明しないといけないレベル。— ワタセユウヤ (@yuyawatase) January 22, 2023 暇な空白(暇空茜)氏もどこかで書いてたな。旧2ちゃんねるで「半年ROMってろ」って言われたって。うん、やっぱり履修は大事だと思いました。 ダウンロード copy #OhmyNewsJapan #WBPC #リーガルハラスメント 3