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利便性に潜む人類進化の危機

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000000530

テクノロジーの進歩と感性の退化を考える
記者名 T田 S

(本文はニュースではなく筆者のオピニオンであることをお断りしておく)

テクノロジーは人間を豊かにするために存在してほしいと願う。
こと情報技術の領域では、演算速度の高速化、記憶容量の大容量化、伝送帯域の広バンド化など、年々、処理可能な情報量は増加の一途である。
こういった情報技術の進化は人間の感性を豊かにするために役立っているのだろうか、と最近悩ましく思うことが多い。
最初の民生用デジタルオーディオであるCompactDiskでは、人間の可聴限界をベースにサンプリング周波数が決定され、量子化されたデータは非圧縮の状態で記録される。現在、CompactDisk開発当時と比較すれば、格段に高音質の記録が可能な状況にあるはずであるにもかかわらず、我々が耳にする音楽はなにがしかの非可逆圧縮技術が利用する機会の方が多い。特に、MP3においては、単純に信号を圧縮するのみでなく、人間の聴覚特性を利用して、心理的に聞き取れていないはずの音(たとえば、特定の大音量がある場合には、他の周波数の小音量は聞き取れない)などは、存在しないものとして情報量を削減することを実現する。
つまり、聞き取れない音は存在しなくてもかまわないだろう、という考え方である。
これらは、乱暴な思いつきではなく、科学的に検証された上で開発されたアルゴリズムではあるはずだが、地球上の全ての人間に当てはまるものかという疑問はある。また、聞こえないはずの音だからなくしてしまえ、という方式には乱暴さも感じる。
本来であれば、技術の進展により、非圧縮どころか、さらに高いサンプリングも可能なはずの基盤がある(たとえばSACD)はずにもかかわらず、我々は、以前よりクオリティーの低いコンテンツを利用しているということになる。
DVDにおける動画圧縮(MPEG)や画像における圧縮(JPEG)も同様の非可逆圧縮を基本としている。
このような事態となる動機としては「利便性」という魅力的な言葉に括られると考えている。いったん実用性には問題がないと判断すれば、多少クオリティーが低かろうが、便利な方がいいよねという奴である。
写真に関しても、本来は、十分な光学性能を有した機器の方が、より良い画像を記録するという点で優れてはいるのが自明であるが、常時持ち運んでいる携帯電話で撮影できれば、その方がかえって便利でよろしいのも事実。光学性能の限界をデジタル技術で補正しながらも、所詮、携帯の液晶程度でしかみないのであれば、表現デバイスに見合った記録しか必要ないのも事実である。
利便性を求めれば、高度なクオリティーは邪魔となる場合も多い。つまり、お手軽さを優先するのであれば、アラが目立つ高性能は不利であるという考え方だ。
つまり利便性を優先すれば、コンテンツ自体はクオリティーが低い方が有利となる。だが、クオリティーが低くても問題ないのだ、という前提は、所詮人間の可能性なんて、この程度だからという割り切りに思えて、いまひとつ気持ちよくない感じも強い。
映像や音楽と言った人間の感性に訴えるコンテンツに対しては、人類は退化の道を選んでいる、とまで言うと考え過ぎだろうか。

以上、利便性を重視して低クオリティーコンテンツに甘んじる危機を書いてみたが、そう述べている筆者も、iTunes+iPodを愛用し、HDDレコーダーは多くをLPモードで録画している。わかっていながらも使ってしまう魅力が利便性にはあるというのは否定しようがないのだが、高クオリティーのものを知った上で、低クオリティーに甘んずるうちは良いが、現在の少年たちのクオリティーの基準が、現在の利用技術レベルで標準化されてしまうとすると不安も感じる。
従来、人類はより高度なものを求めて成長してきたはずなのだが、どうも最近のテクノロジーは人間の能力に大きな割り切りを前提するものが多い気がしてならない。我々には、もう可能性は残されていないのだろうか。
2006-09-01 00:47

この記事は2006年9月2日07:25以降、2006年9月3日07:32までの間にニュースのたねに掲載されました。タイムスタンプは2006/09/01 0:47:44。翌年のリニューアル時にタイムスタンプが2006-08-31 23:54へ修正されました。

これも日本版オーマイニュース編集部には荷が重かった種類の投稿でしょうか。