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ドキュメンタリー映画の光と影

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000002248

『プージェー』に泣かされる
O江 S郎
2006-10-16 07:10

【画像省略】
[編集部注]
記事には映画『プージェー』の内容が含まれています。

 近頃、映画づいている。長らくご無沙汰していた映画だが、最近ドキュメンタリー風な作品に傑作があると聞き、ものは試しとばかりに覗いてみたら、これがなかなかの出来栄えで深い感銘を受けた。これを契機に何十年ぶりかで映画館通いが復活したというわけである。

 戦後のアメリカ文化全盛時代に青春期を過ごしたわたしのような年代の男には、映画と言えば西部劇だった。したがって西部劇の没落と共に映画館へ足が向かなくなってしまた。この程度のものだから映画を見る目は至って単純、面白くてストレス解消になればいい。それが映画だと思っていたのだ。

 ところが、ドキュメンタリー映画は少々様子が違う。面白い筋があるわけではない、劇的なからみがあるわけでもない。変化に乏しい日常の映像が淡々と映されるだけだ。なのに見終わった後に深い感銘が残る。当に大人の映画である。優れたドキュメンタリー映画には、人生経験が豊かであるほど深く味わえるという奥行きがある。熟年の観客が多いわけだ。わたしもそれなりに歳を重ねてきたということか。ところが、これに大きな落とし穴があった。先日見た映画では完全に打ちのめされてしまった。2週間たった今も悲しみが止まらない。

 その映画というのは、ゲルを住居とするモンゴルの遊牧民の少女を追った映画『プージェー』であった。
 
 冒険家の関野吉晴氏が、モンゴルの草原で馬を自在に操る少女というには余りに幼い6歳の幼女、プージェーと出会あったところからこの映画は始まる。同じ年格好の子供を持つ関野氏は、甘えたい盛りの幼い女の子が、いっぱしの働き手として牛を追い羊を追う姿に驚嘆すると同時に感動を覚えた。この健気でしっかり者の幼い女の子に魅せられた関野吉晴氏の感動が、この映画のモチーフである。

 モンゴルと言えば朝青龍や白鵬などの出身地であり、多くの魅力的な力士が相撲界で活躍している。そのせいで日本人が最も親しみを覚える国の1つである。容貌も日本人とほとんど変わらない。しかし、この国の大部分を占める大草原に生きる遊牧民の生活は、近代文明とは隔絶されたものだ。

 原始時代を引きずったような生活が今も続いている。電気もガスもない生活は至ってシンプル。自然に逆らわず溶け込むように生きているから、その生命力は驚くほど強靭だ。氷点下の寒風をものともせず子供たちは駆け回る。ただ駆け回るだけではない、幼い足取りで羊を追い、大きな牛まで追うのだ。この子供たちにとって家畜は家族なのだろう。

 それにしても、生まれながらにして働くことを使命として受け入れている姿が感動的だ。仕事を嫌がったり逃げたりする姿勢は微塵も感じられない。日本の農民も働くことに感謝していたころがあったが、そんな遠い昔を思い出させる光景だ。

 草原のゲルに住む者にとって、水はこの上なく貴重だ。風呂はおろか顔を洗う水も惜しむ。そのせいで大人も子供も垢まみれ、垢に汚れた顔に垢で光る衣服。でも、その中に仕舞い込まれているのは、輝く宝石のような心であることが観客にもやがて分ってくる。

 プージェーのシャイな笑顔は素晴らしい。そして逞しい。日本で6歳といえばまだ指吸いが止まらない甘えったれもいるくらいだ。が、プージェーは違う。馬に跨り牛を追い羊を追う一人前の働き手なのだ。いやいやではなく進んで働く姿は子供ながらも凛々しく堂々としている。

 大人たちもまた働き者で、しかも優しい。ゲルのような孤立した環境で生活していると人恋しいのだろうか。関野が訪ねたころのプージェーの一家は、馬泥棒の被害に遭い苦境の最中にあった。なのにプージェーが連れてきた不意の客人を粗略にはしなかった。精一杯もてなして心を通わせようと努める。いつしか心が通うようになった客人ともやがて別れの日がやって来た。せっかく馴染んだ関野たちとの別れを惜しみ、アフリカへ行くという関野にプージェーの母は、大事な馬を一頭進呈するから乗っていけと言って関野を感激させる。

 1年後、関野がプージェーを訪ねると、優しかったプージェーの母は落馬が元で亡くなっていたと知らされ、関野は大きなショックを受ける。救いは、母との死別の悲しみを乗り越え、逞しく成長したプージェーの姿だった。だが、悠久の大草原を馬に跨った少女が、夕日に照らされて牛を追う牧歌的な風景とは裏腹に、近代化の波は容赦なく草原を洗い、プージェーの足元をも突き崩す。今のような生活が長続きしないことを、幼いプージェーも薄々感づいているようであった。

 7歳になったプージェーが学校へ行く日がやって来た。遠い親戚の家から町の小学校へ通うのだという。生まれて初めて風呂に入ったのであろうか、見違えるほど愛らしく着飾ったプージェーが、頭に大きなリボンを結び嬉々として学校へ向かう。教室では顔を紅潮させ先生の顔を真剣に見つめるプージェーの顔が大写しになる。希望に輝く瞳がなんと印象的なことか。

 やがて関野との別れの日がやってくる。「プージェーは大きくなったら何をしたいの」と関野が尋ねると「日本語の通訳がしたい」とはにかみながら答える。「だったら日本に来れるね、そしたらまた会えるんだ」と言う関野の言葉に力強く頷くプージェー。このとき関野はプージェーの支援を心に決めたという。だが、これがプージェー最後の映像になってしまうのだ。

 そんなことを露知らない観客は、次に逞しく成長したプージェーの姿が見られるものと期待している。予告パンフレットには関野吉晴氏のプージェー支援の意向が記されていたので、あるいは日本で勉学に勤しむプージェーの姿が映しだされて終わりになるか、とも思った。

 だが4年ぶりに草原を訪れて関野が見たものは、母と並ぶプージェーの遺影だったのだ。交通事故の犠牲になったのだという。それにしても、健気なプージェーの応援団長になったつもりの観客としては、いきなり脾臓を背後から刺し貫かれたようなショックであった。終わって電気が点いてもしばらく立ち上がれない有様。次にえらいものを見てしまった、という後悔であった。これがドキュメンタリーというものかもしれないが、見せられた方としては、とにかくたまらなかった。

オーマイニュース(日本版)より

※引用文中【画像省略】は筆者が附記


この記事についたコメントは1件。

1  10/17 05:40
映画感想文。中学校の宿題なのかと思いました。

タイトルをつけているのは編集部ですか?
何にでも「~の光と影」とつければいいというものでもありませんよ。
いったいどこに「ドキュメンタリー映画の光」と「ドキュメンタリー映画の影」が論じられているのですか?

あまりに安易すぎて、呆れ果てます。


感想文の光と影。それはいつもはかない。ひとつの感想は(ry 次の感想を書くのはあなたかもしれない。

広島でラジオをよく聞いている方なら「映画感想家」さんは耳なじみかとw この映画が面白かったよ、という記事もアリっちゃアリでしょう。他人の感想を読んで観てみようと思う映画(アニメ・マンガ他)もあるでしょうし。