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高校生に取材されたテレビ局(下)

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/MediaCriticism.aspx?news_id=000000002757

情報をどう読むか ~ メディアリテラシー10
渋井哲也
2006-10-30 08:44

 「メディア・リテラシー」を語るとき、誰もが考えるのが「メディア批判」である。

メディアは「第4の権力」と言われたりする。権力が暴走する危険性は、メディア自身が国家権力との関係で使うロジックである。メディアという権力を批判することは、この文脈から一定の説得力がある。

 前回取り上げた長野県松本美須々高校放送部が作り上げた番組も、最初初は「テレビに対する批判的なスタンス」であったことはすでに述べた。しかし、放送部は同時に、「批判だけでは何も産み出さない」と自覚するようになっていく。

【画像省略】
「ニュースがまちがった日」と、映画「日本の黒い夏」のパンフレット
撮影者:渋井哲也

 現代の生活スタイルでは否応なく、なんらかのメディアに接し、そこから情報を得ている。だとすれば、メディア批判は一定のけん制にはなっても、メディアが流す情報をすべてチェックし、批判することだけでは、問題は解決しない。そうしたことを高校生たちは自らの活動の中から悟っていく。

 彼らは最初、松本サリン事件での「誤報」について再発防止策はあるのか、あるとすれば、どのようなガイドラインが必要なのか――を考えていた。しかし、それは高校生が提案するまでもなく、メディアの内部からも一定の批判はあがってきていた。さらに、「放送と人権等権利に関する委員会」(BRO)が設立され、「誤報」については第三者機関の話し合う場が設けられた。

 メディアへの提言にこだわっていた高校生たちは悩み抜いた。「放送局ばかり責めても何も変わらない。私たちが変わらなくちゃいけない」。

 たしかに、松本サリン事件では、メディアは第1通報者を犯人と断定したわけでない。「限りなく黒に近い」扱いをしたが、「犯人だろう」と思ったのは受け手でもある。重要なのは受け手を変えることだった。

 そこで考えたのは「メディアの特性」を知ることだった。そして、さらに取材を重ねて制作した番組が「第20回東京ビデオフェスティバル日本ビクター大賞」を受賞した。

 「私たちが目指した作品のねらいは、テレビ報道を批判しようとしたのではありません。まちがえても訂正できないテレビ報道の弱さ、マスメディアの弱さを皆さんに知ってほしい、と思い、制作しました」。部を代表した高校生はこんなスピーチをした。

 番組制作から得た教訓は高校に還元していく。まず授業を「メディア」と考えて、その中で、生徒自身が「メディア・リテラシー」について発表した。「先生役」になることは、授業という「メディア」では「送り手」になることを意味していた。送り手を経験することで、受け取り方は進歩する。

 対外的には、ビデオ証言集「テレビはなにを伝えたか」を原作にした演劇『NEWS NEWS テレビはなにを伝えたか』を共同制作し、さらにこの演劇は映画「日本の黒い夏」に発展していった。同校放送部の「教訓」は蓄積されているのだ。協力するテレビ局も現れている。

 ただ、活動の過程で顧問の林直哉氏は悩み続けていた、「このままでの状況では、かえって受け手と送り手のギャップを広げるだけではないか」と。
 
 たしかに、メディア批判だけをすれば、メディアを敵にするだけである。批判の対象となったメディアは、批判を批判として受け止めなくなり、受け手からのメッセージを閉ざしかねない。さらなる試行錯誤の結果、その第1弾として「話ができる関係」づくりに活動の重心を移動させていく。

 私たちは、メディア経由で情報を得る。インターネットの掲示板やニュースサイトのコメント欄では、記事だけでなく、それに対する反応も「ニュース」になる。それらがコミュニケーションの「ネタ」として機能する。mixiでもニュースを日記で取り上げる。ニュースの使い方は人それぞれ。ニュースは一方的に送り、受け取るものではなくなりつつあるのだ。

 松本美須々高校の放送部の活動を、私たちも実生活のなかで教訓として活かしていかなくてはならない。送り手と受け手の「話ができる関係」とはどんなものなのか。試行錯誤しながら、有効な仕組みを考え抜くしかない。


 参考文献:『ニュースがまちがった日』林直哉+松本美須々高校放送部(太郎次郎社)

 (NPO法人・ユナイテッド・フューチャー・プレス

【しぶい・てつや】 1969年栃木県生まれ。93年東洋大学法学部卒。「長野日報」社を経て、98年フリーに。2001年東洋大学大学院文学研究科教育学専攻博士前期課程修了。著書に『「田中康夫」研究』(ワニブックス)、『ネット心中』(NHK出版)など、新著は『ウェブ恋愛』(ちくま新書)。


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オーマイニュース(日本版)より

※引用文中【画像省略】は筆者が附記
前回の記事は以下。


この記事についたコメントは2件。

2 Ronnie 11/03 20:40
かって、私が関係している業界で大々的に報道された記事がありました。
取材にきた若い記者に「事実に反する、嘘の報道だ!」と申し入れたの
ですが、デスクの方でそういう報道をすると既に決まっていて、それを
補完する材料を集めに来たみたいなことを言ってました。

この国のマスコミは大政翼賛会の時代から変わっていません。
こうあるべきだという独善に疑いも持たない体質なのです。

1 yonemura 10/31 13:04
>メディア批判だけをすれば、メディアを敵にするだけである。批判の対象となったメディアは、批判を批判として受け止めなくなり、受け手からのメッセージを閉ざしかねない。

これはあまりにメディア側を甘やかし過ぎだと思います。
批判されて「敵」の話は聞かない、などというメディアがあれば、それこそジャーナリズム精神の完全に欠如したクズメディアでしょう。


>さらなる試行錯誤の結果、その第1弾として「話ができる関係」づくりに活動の重心を移動させていく。

そんなものに気兼ねして表現を変えるなどは、単にクズメディアをのさばらせるだけです。
オーマイニュースというメディアはそうなってほしくないものです。


日本共産党と強いつながりのある仁藤夢乃氏と氏が代表をつとめるColaboに関する話題は、過熱気味なネット上での取り扱いに反比例して新聞・雑誌・地上波メディアではほとんど取り上げられることはありませんね。

報道しない自由』を発動中かな?

例の「給与受け取りました」の領収書ですが、本職の税理士さんからも指摘が入っていますね。

期間1ヶ月で毎月雇入れしてるからって申し開きが出てくるような予感が強くしますが、それならそれで毎月『雇入通知書(労働条件通知書)』を被雇用者本人に手渡す義務が発生します。ものすごく面倒なことをしていますね。

インターネット以前だと、こういう追及をしようものなら自殺者が出るような総括という名の追い込みをかけられてしまうところです。現在でも単なる一般の一個人ができることではありませんがw