見出し画像

存在の耐えられない軽さ

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003087

「こころの問題」ではなく具体的な処方箋が必要
O内 S衛
2006-11-18 17:34

 『存在の耐えられない軽さ』(1984年)は、チェコ出身の作家ミラン・クンデラによって描かれた小説である。68年のチェコ動乱、いわゆる“プラハの春”を背景に、「存在の耐えられない重さに耐えること」、そして「存在の耐えられない軽さに耐えること」が物語の主題とされる。このストーリーとは直接関係ないが、「いじめ問題」と「いじめによる自殺」の一連の報道に接して、私の頭をよぎったのは、この「存在の耐えられない軽さ」という言葉であった。

 12日には、大阪で中学1年の女子が自殺をした。北九州市では、いじめへの対応の不備が問題となっていた小学校の校長が自殺をした。12日現在、計9通(※注)の自殺予告が文部科学省に届いているという。

 この死の連鎖は一体何だろうか。あまりにも「存在」、あるいは「生」の意味が軽い。それこそ想像を絶するような軽さである。軽薄化した「生」は、「死」へのハードルも下げる。そして、生と死の間に在る障壁は、いとも簡単に乗り越えられてしまう。

【画像省略】
(写真はイメージ)

 うつ病の患者で「自己愛の崩壊」が指摘されるように、自殺をする彼ら、彼女らには、生を肯定するための自己愛さえ崩壊してしまっているのだろうか。少年少女に限らず、先述の校長のように、いまや社会病理になっているとさえ思える。

 メディアに登場する識者たちは、いじめの加害者を厳しく非難する。あるいはしたり顔で「命の尊さ」について語る。さらにはいじめの問題を「こころの問題」として、心の回復を訴え、周りの人間に相談するなどして自殺を思い留まるよう促している。

 しかし、こうした声がいじめの抑止や自殺の防止にどれだけ役立つだろう。学校に限らず、企業でも、政治の世界でも、あらゆるところにいじめは存在する。いじめはこころに生じる問題ではなく、社会構造の中で生じる問題である。自殺する人は、相談などはもはや無意味、と考えるからこそ命を絶つのではないか。それに対して、識者と呼ばれる人たちも、社会も、具体的な処方箋(せん)を示してこなかったのだ。

 学校や個人といった所属するコミュニティーの中で悶(もだ)え、苦しむこと。そこから抜け出す権利はあらかじめ剥(はく)奪されていて(あるいは剥奪されていると思い込んでいて)、それが不文律となっているような状態。こうしたいじめの状態を、『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体』(柏書房)の著者で社会学者の内藤朝雄氏は「共同体主義的」と呼び、いじめ問題に対して、これまでの研究が何もフィードバックされてこなかったことを慨嘆している。

 私たちはこの問題に何をすべきか。たとえば、いじめを受けている人は自虐的な死をもって何かを表現するのではなく、息苦しいコミュニティーから離脱する方法を考えること。社会はその自由と権利を認め、オルタナティブな(=代替となる)受け皿を用意すること。学校でのいじめが生徒間の権力関係、教師と生徒の権力関係によって発生しているのなら、流動的なクラス制度にし、教師も選択できるようにすること。通う学校を選択できるようにすること。

 いじめやいじめによる自殺におどおどし、右往左往するのではなく、問題を根本から考え直して具体的な処方箋を提示することが必要だ。抜本的な改善策が、自殺する彼ら、彼女らを擁護するための唯一の方法であると思う。


【編集部注】文部科学省児童生徒課によると、17日までに同省へ届いた自殺予告文は計27通にのぼっています。

オーマイニュース(日本版)より

※引用文中【画像省略】は筆者が附記


この記事についたコメントは8件。

8 シュウ 11/20 23:38
長くなってしまって大変恐縮ですが、
もう一点加えさせてください。

市場原理というのは貨幣が介在する交換の場としての市場が、
需要と供給のバランスによって支えられるその原理のことを言います。
近代経済学の祖アダムスミスは「神の見えざる手」によって
需要と供給が自然と調整されると述べました。

以上のことからわかるように、
学校を選択する問題及び良い学校だけが生き残る云々という話は
市場原理とは関係がないように思います。

選択の自由を与えることで、
不平等が生じ、いじめの起きる学校、いじめのない学校という明瞭な区別ができてしまうとも私は思いません。
ともあれ、いずれにしても、
学校制度の見直しは必須であるように思います。
これまでの知見や諸外国の取り組みなども考慮して、
いじめの起きにくい、起きても回避できる
体制を創る必要があるように思います。

7 シュウ 11/20 23:15
当記事の執筆者として誠意を持ってコメントいたします。

大人には所属先から移る自由が認められていて、
子供にはそうした自由が認められていないとするのは
大人のエゴではないでしょうか?
私はいじめの問題は、荒んだメンタリティーによって生じるというより、
制度的な欠陥により生じていると考えます。

従って、制度自体を再考することによって、
いじめを生じさせる基盤自体を作り変える可能性を考えます。

その際、大人が転職により、抑圧から自由になっているのだとすれば、
制度を見直すことによって、同様の権利を与えたらどうかと思います。
その結果として、学校に格差が出来るというご指摘理解はできますが、
杞憂に過ぎないように思います。

いじめはふとした瞬間に、合理性に担保されることなく始まります。
そして、その不合理性ゆえにエスカレートします。
悪循環として増幅されます。
その際、その負の連鎖から離脱することによってリセットする
という方法は有効ではないでしょうか?

きっかけは些細なことです。
(明確、合理的な理由がないことが大半でしょう)
環境が変われば、いじめなどされなくなるということは
十分考えられるはずです。

いじめばかりが起きる学校ができてしまうでしょうか?
僕はそうは思いません。
いじめは偶発的なものです。
そしてまた、どこでも生じるものです。
故に、どこかでいじめが極度に多発し、
一方全くいじめが起きない場所があると考えるのも
錯覚であるように思います。
大事なのは起きてしまったいじめを断ち切る方法を
模索することではないでしょうか?
もちろんいじめを生じさせにくい環境を用意することも
極めて重要なことです。

6 Ronnie 11/20 19:34
> 流動的なクラス制度にし、教師も選択できるようにすること。通う学校を選択できるようにすること。

K保田K美記者の「いじめについて思うこと」にもコメントしましたが、こちらにも転記します。

社会人は逃れる術はあるのです ⇒ 転職すれば良い。少なくとも死ぬ必要はない。
日本の会社が何処も同じなら、外国に行くことも、永住することも自由です。
でも、子供達には学校を替わる自由がないのです。もし、苛めのない学校に移る自由を与えたら、学校間格差が生じるでしょう。
苛め学校は消費者から見放されるでしょう。
それで良い学校が生き残れば良いじゃん、というのがアメリカの市場原理です。
不公平はいけないと、特定の学校に留まるよう規制をかけているのが今の日本です。

5 シュウ 11/20 07:51
教育基本法を巡って、政治および議論が紛糾、空転しています。
「やらせ質問」や「必修科目未履修の問題」で、
互いに足の引っ張り合いをしている感も否めません。

ここでも、「いじめの問題」には一向に手が付けられず、
議論は先送りになっています。
さも、勇ましく、看板を架け替えることだけに精を出し、
実際、中身は何も変わらず、問題は温存されたまま。
暗澹たる気持ちになります。

4 Ronnie 11/19 21:07
今の教育制度で良いと思ってる国民はいません。
ニューヨークから帰国したばかりですが、バスにお年寄りが乗り込んでくると、皆さん一斉に立ちあがります。何が違うのでしょう?

2 屋根の上の父 11/18 23:04
政治家が、識者が、教育者が、親が、大人が全てとは言わないが、「存在の耐えられない軽さ」を露呈している。大学教員ののぞき見の再発はその頂点の一つだろう。存在の価値を問われる教育委員会といい、新進気鋭の知事が汚職に染まり、高級腕時計のコレクションを持つ等々。「美しい日本」は小、中学生の自殺が頻発するのに、首相は、教育基本法の強行採決に走る。「美しい日本」を守るために、小、中学生の自殺を予告した子どもに、何を語りかけたのか。文科省の大臣のマイクを取り上げ、首相そのものが「自殺は思いとどまろう、我々大人が守ってやるから。」と何故言わないのか。どこかの省の仕事と振るのが常套手段なのか。自分が国政の長ならば、自分の主張する美しい国に大異変が起こっているのだからマイクを執り、全てのマスコミを使い、大きなキャンペーンを張り何か行動を起こしても良いと思うが、どこかの仕事に振ることで終わるのだ。昨日人通りの結構ある夜の10時半頃、我が息子が塾の帰り道に電柱に立ち小便をする大人を二人も見たという。自転車で通り過ぎたにもかかわらず局部が丸見えだったという。そこにも、ここにも「存在の耐えられない軽さ」がまかり通っている。大人のいない日本。勝ち組、負け組、談合、給与格差、ニート問題、いじめ問題と解決とはほど遠い日本です。私は小説を知らないが、プラハとはほど遠い国日本、意味の違いすぎる「存在の耐えられない軽さ」だろうなと、今の日本の大人の情けなさを感じてしまった。


オピニオン会員が排除された直後の記事およびコメント欄です。まだ活気がありますね。